子どもはわかってくれる

ダンサーとして子ども向けのワークショップに行ったりすると、当然のことながら、全然言うことを聞いてくれない子もいる。根が素直でない子というのは会ったことがないけれど、行動が素直でなくて手を焼くことはけっこうある。
大人には大人の事情もあるので、僕たちは「こういう風にした方がかっこいいよ」とか「いい加減にしないと怒るよ」とか、いろんな言い方で子どもたちを意のままにしようとする。直接的に、こうしなさい、と言ってそれが通ることもあるけれど、そういう相手ばかりではないので、言葉巧みに誘導する。
でも、そういうのは、ある時期から、少し控えるようになった。お互いにノリノリのときなんかには、そういうことも言う。でも、普段は、特に一対一のときには、選択肢としてはあるけれど真っ先に選ばなくなった。

きっかけは、すごく気分屋で扱いのむずかしい、ある小学生の女の子だった。気分が乗っているときにはその場にいる全員を魅了してしまうのに、ちょっとしたことがきっかけで、ときにはきっかけもなく部屋の隅でうずくまって顔も上げなくなってしまう。頭のいい子で、たしか高学年だった。家庭の事情は不安定と聞いていた。きっと、僕には想像もできないような苦しさと隣り合って生活している人だったんだと思う。
僕たちは何回かのシリーズでワークショップに行っていた。何か問題を抱えてしまっている人たちに対して、僕らのような束の間一緒に踊ったりするだけのような人間ができることは少ない。ほとんどない。でも、一緒にいる時間だけでも楽しく過ごせたり、そういう種類の豊かさに触れることが(傲慢な言い方とわかりつつもこの単語を書くけれど)救いになれば、と考えている。
でも、顔も上げてくれないのでは、何もできない。
そのときも「踊ったらかっこいいのにな〜」とか「みんな待ってるよ」とか、いろいろ言った。おだてたり、良心を突いたりした。だけど彼女は動かない。
他の子たちも見なければなので、その子だけに構っていることもできない。ときどき様子を見ながら、ワークショップは進む。一緒に過ごせる時間はどんどんなくなる。
とうとう何も思いつかなくなって「一緒に踊ろうよ。僕がそうしてほしいんだ」と言った。
そうしたら、彼女は泣き顔をあげた。それから少しして、立ち上がって、一緒に踊ってくれた。

そのときから、大人に対してやらないようなタイプの煽てや価値観の押し付けは、あまりしないようになった。
もちろん、興味を持ってもらえるようにとか、飽きさせない工夫はする。でも、それは、相手を意のままにしようとすることとは、似ているけれど違うことだと思う。
先日も、ふざけていた小学生の男の子に「君のことは好きだけど、そういうことするのは嫌いだよ」と直接的に伝えた。「べつに嫌われてもいいし」と返事をされたので「君のことは好きだと言ってるし、行動についての話をしてる。でも、そういう行動を続けていたらそのうち嫌いになってしまうかもしれないし、僕は君を嫌いになりたくない。君が嫌われてもいいと言ってるのが本心かわからないけど、僕が君を嫌いになりたくないんだ」というようなことを言った。そのときは不貞腐れた顔をしていたけれど、翌週から、その子は無闇にふざけなくなった。
子どもはわかってくれる。全部じゃないかもしれないけど、びっくりするほどわかってくれることもある。

これは、ときどきしか子どもと触れ合うことのないタイプの人間だから言える戯言なのかもしれない。たとえば小学校の先生だったら、こんな甘いことを言ってられる状況ばかりじゃないだろう。状況の数だけ関わり方はある。
でも、僕は何年か前まで、子どもというのは湾曲した言葉で巧みに操ろうとするのが当たり前の対象として見ていたところがあって、でもそうじゃなかったんだなと気づいた、という話だ。
若い友人を嫌いにならずに済んだことをきっかけに、いろいろ思い出したり考えたりしたので、メモ的に書いた。