あの子は今

もう会えなくなってしまった友だちのことを考える。

小学生になる前から親交のあった男の子。まだ十代だったある日、その子は突然入院した。なんでも、幼少期に患った大病がぶり返したらしい。小さい頃に手術をして、それ以降も何度も定期検査を繰り返して、再発の危険性はないだろうと太鼓判を押された矢先の事だったそうだ。

入院して、手術をしたようだけれど、手術は失敗してしまったと聞いた。手術中、脳に血液が回らない時間があったらしく、身体に障害が残ったらしい。

彼の病気はお腹の病気だったのに、お腹を手術したら治るはずだったのに、どうして、どうして、話せなくなってしまったのか、どうして、字が書けなくなってしまったのか、どうして、歩けなくなってしまったのか。

入院したきりいつまで経っても学校に来ない子がいれば、誰だって気になる。黙っていた。何も喋らなかった。噂になるといけないから。誰に聞かれても、何も知らないとだけ言ったよ。だから、いつだって帰ってきてよかったのに。

行き先も告げずに引っ越してしまったね。そっとしておいてほしかったんだね。そして、それは、「二度と会うことはない」、言い換えれば「回復の見込みはない」ということなんだね。

でも、やがて10年が経とうという日に、現在の彼に会ったという人の話を又聞きした。

その人が言うには、彼は、10年前の学校の先生のことを覚えている。震える手で字がかける。少しなら人と話せる。うちの中なら、手すりにつかまって歩ける。と。


そうか、術後すぐ寝たきりだったと聞いていたけれど、頑張ったんだね。どれだけ大変だったんだろう。すごいなあ。

でも、やっぱり、もう会えない気はしている。入院する前とは姿から何から全て変わってしまった彼に、どんな顔をして会えば良いかなんて、私にはわからない。彼を見て悲しむような素振りをみせたり、ショックを受けた顔をしたりしたら、彼は傷つくだろうから。そんなふうになるくらいなら、これからもずっと、会わないままでいたほうが良い。


だけど、会いたいな。「また今度会おうね」とも「もう永遠に会えないね」とも言葉を交わさないまま別れてしまったから、気持ちが宙に浮いたままなんだよ。

思い出は事実とは違って、記憶の保持者によってなんらかの脚色がなされている。私の記憶も例に漏れずそうだ。あの子は、私のこと覚えてないかもしれない。たくさんいた同級生のなかの誰かのうちのひとりくらいにしか思っていないかもしれない。

あなたは私に会いたいと思ってくれているかな。私は会いたいけれど。

それすら永遠にわからないなんてね。

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