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諦めないということ

はじめに

諦めずに努力している方々へ。この先の文章を読むことが不快に感じられる可能性があるため、読むことをお勧めしません。
特に受験生の諸君には、自分の受験が終わってから読むことを強く、とても強く推奨します。

私には、人々の努力や諦めずに頑張る姿勢をけなす意図は全くありません。
何かに挑戦し続けている方がこの文章によって気分を害されることは望んでいません。
それでもよろしければ、どうぞ読み進めて下さい。



ネバーギブアップ

英語が分からない方でも、このカタカナ表記の意味は理解できるだろう。それほどまでによく耳にするフレーズだ。
「決して諦めるな」という直訳は、非常に力強いメッセージを持っている。

諦めないことは美徳とされている。諦めずに成功した話は、世の中に数多く存在する。

なぜか。

諦めなければ、成功する可能性がある。そして、その可能性を追求し続けるのは容易ではない。苦労すること自体が美徳とされることもあるだろう。

成功への可能性をつかんだ話は、人々の記憶に残る。
そうして、「諦めなければ成功する」という美しい方程式が形成される。

しかし、諦めることは悪いことなのだろうか。

諦める時というのは、失敗した時である。諦めることが悪いとされるのは、つまり失敗そのものが悪いということなのだろうか。

何度も失敗し心が折れそうになったとき、「ネバーギブアップ」と励まされる。
次の挑戦で成功するかもしれず、これまでの努力が無駄になるかもしれない。そんな思いから、人は「ネバーギブアップ」と声をかけるのだ。

しかし、諦めずに再び失敗したとき、失ったものに対して、その言葉をかけた人は責任を負うことはできない。
最悪の場合、「自己責任」と言うことすらあるかもしれない。

私の経験を少し聞いてほしい。

私は大学受験でとある大学を目指していた。結果的に、複数年の浪人生活を経て、目標の大学/学部とは無関係な大学に進学した。
大学に入ってからも受験を続け、あっという間に四年生になってしまった。受験勉強を言い訳に、アルバイトも就職活動もしていない。
このとき、私には将来の展望が見えていなかった。

この話を聞いた多くの人は、私の状況が自己責任であると考えるかもしれない。それは間違っておらず、私も他人事であればそう思うだろう。

それでも、「ネバーギブアップ」と私に言い続ける人がいた。
「今までの努力がもったいない、次は必ずうまくいく」と。

その言葉は心からのものと理解している。
だが、それらの言葉はもはや私には響かなかった。

このような極端な例は珍しいかもしれないが、「ネバーギブアップ」と言う際には、誰のための言葉なのか、考えてみてほしい。

頑張る人が頑張り、諦めない人が諦めないのは素晴らしいことだ。彼らが自分の目標に取り組める環境が整っていることこそ理想なのだ。彼らを馬鹿にする風潮は、誰も幸せにしない。

しかし、諦めることを許さない風潮も、同じようになくなるべきだ。頑張れる人や諦めない人が何を言おうと、できないことはできないのだ。

諦める人を馬鹿にするのは、たいてい諦めた人だ。諦めたことへのコンプレックスから、努力する人を見て不快に感じ、けなしたくなる。だが、それは何も生み出さず、ただ足を引っ張るだけである。

もう少し、諦めることに寛容な社会になれば、諦めたことをコンプレックスに感じる人が減り、諦めない人が生きやすくなるはずだ。

諦めかけている人に「ネバーギブアップ」と言うのは、その言葉の重みを十分に理解していなければならない。その重みを知る人と、諦めに寛容な人が増えることを願っている。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

最後に、受験に上手くいかなかったと思ってる方がいたら、リプでもDMでも声をかけてください。ご飯奢ります。

荒烏伝🐚
2024/02/11

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