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15,【千代田区】鹿鳴館はどこにあった??

東京時層地図・千代田区内幸町駅近辺編

2019年6月訪問

新橋でちょっと飲んだ後、電車に乗ろうと霞ヶ関まで歩いている途中に、ふと

「あれ、この辺って昔なんだったんだろうな?」

と思って東京時層地図を開いてみた。

ゆえに時間も24時近くなっている。人通りのほとんどないなか、携帯をみながら立ち止まっている怪しいおっさんとなった。


現在の地図

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知っているのは日比谷公園、音楽堂、公会堂くらいだ。

明治時代へ飛ぶ

文明開化時 1876-84(明治9~17年)

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驚愕の画像が現れる!!!
うわー何と堀がある!! 信じられない!
ここはのちの外堀り通りではないのだ。
外堀通りはこの場所に来ると外堀を埋めたものではない。
まず目につくのが、東京府師範学校、府立一中、島津邸、日比谷練兵場。

足元にある水路は江戸城の外堀にあたる。
外堀を西側に辿っていくと、当時の鍋島邸の南側へつながる。現代の首相官邸だ。

地図通りに読むなら

「虎ノ門から分岐する西新橋の外堀通りは外堀ではない」

明治末期に外堀の外側に路面電車が走るのだが、そこが現在の外堀通りになっている。

今の内幸町駅の東側が

東京府第一中学校(日比谷高校の前身)いわゆる一中だ。

その東が東京府庁だった。今の都庁にあたる。

西側が東京府師範学校(東京学芸大の前身)

東京府庁の敷地に一中と師範学校がある形だ。

その西に島津邸、その隣が切れてしまっているが相馬邸。

北に日比谷練兵場

日比谷練兵場はもともとなんの土地だったかというと、1857年頃の地図では毛利慶親、鍋島直正の土地が北側の4分の1を占めていた。

東京ミッドタウン編でも毛利と鍋島は近い場所にいた。
この両藩が大きな土地を持っていたことによって、明治政府も大きく土地を使うことができたのだ。

それにしても今まで、大名の力を軽く見ていた。

薩摩 島津
長州 毛利
土佐 山内
肥前 鍋島

これらの藩士が主導で明治維新を成し遂げたのだと思っていたが、この江戸末期の時点でも、大名が与えらていた土地をみると昔からかなりの力を持っている石高トップ10に入る大大名達なのだ。藩の後押しがあっての活躍なんだ。
幕府と戦う軍隊をどう用意するんだという話になるし、大名そっちのけでやれるわけない。

東京府庁の北になにやら宇宙人の顔のような洒落乙な庭がある。

皇族か薩長土肥の元大名だろうと思ってみると、なんとここがあの鹿鳴館なのだ。ここにあったんだ。

鹿鳴館

外務卿の井上馨が不平等条約の批判の矛先を変える為、国内の欧米化をもくろんで建設。

イギリス人コンドルの設計。コンドルの設計は御茶ノ水のニコライ堂が現存している。

鹿鳴館という名前も華やかで洒落ている。
漢詩の詩経の鹿鳴より名付けられている。

詩経は紀元前7.8世紀ごろに編纂された。
紀元前8世紀ごろの世界といえば、ギリシャでは叙事詩のイリアスが作成され、日本では弥生時代が始まった頃の話。

詩経の「鹿鳴」は貴人をもてなす宴会の歌だ。

ゆうゆうとして鹿は鳴き 
野の草を食らう 我に嘉賓あり
瑟を鼓し琴を鼓す 瑟を鼓し琴を鼓し
和楽してかつ楽しむ 我に旨酒あり
もって嘉賓の心を宴楽せしめん

まさにぴったりのネーミングだ。

鹿鳴館では命名の通り連日に渡って舞踏会、夜会、園遊会を派手に展開したが、表面的な欧米化に反発して国粋主義が盛んになり批判の的になる。

井上の失脚後は華族会館(華族の集会所)として払い下げられる。
明治16年開館、明治23年閉鎖。たった7年間の短命施設だった。

ミスターイノウエの目論見通りには世の中進まなかった。

この時期は欧米化を望む人と望まない人との対立も目立つ。

日本語英語化計画をした帰国子女の森有礼は明治22年に殺されてしまう。

日本語英語化計画は極端だが、当時は地方によってしゃべり言葉がバラバラで意思疎通も難しく、日本語を教える学校もなく、寺子屋で教えているのは中国語の漢字なのだから、すっ飛ばして英語化してしまえとなったんだろう。

鹿鳴館は7年という短い期間だったが今なお歴史に名前を残しているのは、そのインパクトゆえだろう。

鹿鳴館の元々の敷地は江戸時代1857年ごろの地図では薩摩の島津斉彬と陸奥白河藩の阿部マサヒサの土地。
のちに両藩は戊辰戦争で戦うことになる。

島津の屋敷にあった表門は黒塗りで黒門と称し、東大の前田の赤門(赤門は前田のものだったのだ。知らなかった。)と双璧をなしていたが、空襲で焼失。地震と空襲がなければ東京はかなりの歴史的文化遺産の地だったはずだが、もうないものは仕方ない。

師範学校横の島津邸は鹿鳴館の敷地から移転してこの場所になったが、お隣の相馬邸も最初からここにあったわけではない。

江戸期にあったのは石見津和野藩 亀井茲監(これみ)邸に相馬邸が移転した。

相馬の馬追いで知られる相馬氏は戊辰戦争では幕府方だった。
戊辰戦争後、幕府方は都内から放逐されてしまったと思っていたのだがそうでもないようだ。


明治末期 1906-09(明治39~42年)

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この30年で様子は一変する。
日比谷の練兵場は明治25年になくなり、明治36年に本多静六設計により、日本初めての近代的西洋式公園として開園された。本田静六は投資で当てた人という印象だけれどそういえば造園が本業だった。

島津邸は移転、相馬邸はそのまま。

外堀は大きく埋め立てられ、微かな水路を残すのみ。日比谷通りもできている。

日比谷公園には明治41年には西洋式花壇、野外音楽堂、公会堂などが創立。と、「千代田区史跡散歩 岡部喜丸」にはあるけれど、地図には図書館と北のほうに小さい野外音楽堂しか見当たらないの。

その近くに議長官邸 今の厚労省あたりにあった。議長というのは誰だろう。近くには貴族院と衆議院があるのでどちらかの議長だろう。

相馬邸の西側が貴族院と衆議院だ。明治23年に建てられる。
画面からは見切れているが、ここに帝国議事堂があった。

当時の東京日日新聞では初の議会の模様を

貴族院なる多くは馬車にて、衆議院なるは人力車なり。いずれも車は新調、車夫は切り立ての法被、股引、笠のおおい白々と人避くる掛け声いさましく、容子も気の利きて見よるもげにのべなり

とある。

鹿鳴館は華族会館となり、庭は勧業銀行として1899年(明治32年)落成。現在のみずほ銀行の前身。

外堀の南側は桜田本郷町と称されており、区画に分かれて、同伏見町、同太左衛門町、同ゼン右衛門町、同鍛治町などの名前がつく。
鍛治などの名前が付いていることから、江戸時代は町人が住んでいたのだろうと推測できる。

明治の30年間で鉄道が走る

今で言うところの三田線、銀座線、千代田線(少し位置が違う)の位置にあるが、もちろん当時はできていない。

画像の下に烏森神社というのがある。

そのホームページによるとこのあたりは昔は砂浜で、一帯は松林でありその松林に烏が集まって巣を作っていたために烏森となったようだ。
この地名は昭和7年まで使われる。

烏森神社は藤原秀郷(栃木県では有名人)が平将門の乱の鎮圧後にこの地に烏森稲荷を作ったのが始まりとされる。

ということは成田山(将門征伐のために作られた)と同じような関係にある。将門を祀っている神田明神とは歴史的には敵対関係にあるといっていい。

アメノウヅメノミコトを祀っている数少ない神社である。

関東大震災前 1917-28(大正6~昭和3年)

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このころの地図は毎度見やすくていい。
1923年(大正12年)に関東大震災が起こるのでその前後の地図。
内幸町を横切る形だった路面電車はなくなり、ついに相馬邸もなくなった。
ちなみに相馬家の現在の当主は原発事故の影響で広島に移住しているようだ。
こういう歴史ある家の人は大変だ。自分の代で墓じまいするなんてできないわけだし。

微かな水路を残すのみとなった外堀に橋が架けられている。この場所いま行ったら痕跡はあるだろうか。
この外堀を西に辿ると赤坂の弁慶堀までたどり着く。ホテルニューオータニのところ。

明治後期から内幸町一丁目に大きな病院があるのだが、ここが長与胃腸病院だろう。
夏目漱石が明治末期に入院していた場所。
夏目漱石は病気のデパートで、糖尿病、胃潰瘍、痔、肺結核、精神病、大変だこりゃ。

昭和戦前期 1928-1936(昭和3~11年)

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90年前。戦前。

鹿鳴館跡地に黒門がある。黒門はもともとあった島津邸のもので、東大の前田家の赤門と匹敵する文化財だった。戦争で残念ながら焼けてしまった。
地図には写っていないが、鹿鳴館と帝国ホテルは隣り合わせのように感じると思ったら、迎賓の役割を持つ鹿鳴館に宿泊施設の役割を持つ帝国ホテルを作ったようだ。

相馬邸跡地には民政党の本部が出来る。
立憲民政党は小泉純一郎の祖父、小泉又次郎が在籍していた。昭和3年に幹事長とのことなので、ちょうどこの地図くらいに活躍していたんだな。小泉進次郎は曾祖父さんからの政治家ということになる。

日比谷の公会堂は1929年10月に出来た。
佐藤功一の設計。
野外音楽堂が出来る。ウィキペディアによると1923(大正12年)7月に開設。

私のいるあたりは飛行館ができる。これはウィキペディアには無かった。個人のホームページによると佐藤功一設計で、飛行機に関する各団体が入ってたようだ。

佐藤功一、、、

なんと!栃木の小金井出身。
栃木出身者にこんな天才がいたとは。
早稲田の大隈講堂、神田明神本殿、武蔵大学講堂、津田塾大学などが都内では今も残っている。

高度成長期前夜 1955-1960(昭和30~35年)

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戦後。
よく破壊と創造、壊れてまた更に発展するという話が引き合いに出されるが、大抵は壊れたら人の流れが変わってしまうのでもう戻らない。
かつて浅草は関東震災前は東京一の繁華街だったが、いまは昼間だけ賑わう観光地だ。夜に行ったらネコしかいない。

20歳のころに道路工事の夜間警備のバイトで、浅草ロック前に行っていたが、女装のじいさんが歩いていたのが印象的だった。人の流れがあれば復活の余地がある。

高度成長前夜、ここから加速的に日本は発展を遂げる時代を迎えるのだが、まだその前の段階。
黒門も痕跡が多少残っている。

日本放送協会というのはNHKだが、ここにあったんだ。場所でいうと明治初期の府立一中あたりになる。
本館自体は戦前の1938年(昭和13年)12月20日に竣工している。
ウィキペデアには都電の田村町一丁目から近かったとの記載があるが、なるほど近い。
戦後に代々木公園一帯が米軍の宿舎となり、その跡地にNHKは移転。1973年にこの地での役目を終えている。跡地には日比谷シティがたつ。

バブル期 1984-1990(昭和59年~平成2年)

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高度成長時代は激動で、様々な高層ビル群が立ち、路面電車はなくなり、地下鉄となった。
鹿鳴館の真ん中あたりで考えると、日比谷NTTビルと大和生命ビルの間辺りにあった。
あの辺りに行ったら、ビル風を浴びながら、鹿鳴館を想像してみよう。
きっと当時のきらびやかな夜会を想像…そこまで想像力はなかった。

高度成長期からバブル期にかけてこの界隈はビルが立ちまくる。60~80年代の20年間の変化はすごい。変化という意味では最も激しい面白い時代かもしれない。

飯野ビル 1960年
日比谷NTTビル 1961年3月
日石本館 1962年8月6日(2011年解体)
内幸町駅 1973年11月27日
日本プレスセンター 1976年8月31日
富国生命ビル 1980年1月23日
第一勧業銀行ビル 1981年
日比谷シティビル 1981年10月
日比谷国際ビル 1981年10月29日
セントラルビル 1983年5月31日
東新ビル 1983年(2014年解体)
大和生命ビル(現・日比谷U-1ビル) 1984年06月

それにしてもこれだけ短期間でビルが立ちまくると、来るべき未来への期待感も相当なものだったのではないか。

この辺りは歴史の層がぶ厚い。

まさに東京時層地図アプリの名前がぴったりの場所だった。


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