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【目黒区】西郷山公園

鍋島公園から続いて西郷山公園に行ってまいりました。

鍋島、西郷

東京は明治維新の勝ち組の名前が刻まれた場所であることを120回にしてようやく気が付きました。(笑)

旧山手通り沿いで周辺には代官山蔦屋などのオシャレスポットがあります。

現在の地図 

大部分が工事中で立ち寄る区域が限られているため、公園らしい賑わいはありませんでした。遊具も一つだけなので子供も少ないです。

それでも5人ほど上半身裸で日光浴を楽しんでいました。昔の人気バンドのボーカルの人が恋人と日光浴を楽しんでいたり、隠れ家的なスポットになっているようです。

この日は暑い日でしたが高台にあるため風通しがよく、気持ち良い場所でありました。工事が終わると眺望もよい場所です。

実際の西郷邸跡はこの西郷山公園を西に降りた場所にあるのですが、下は風が抜けず暑そうだなとおもったので行きませんでした。

落差20mの滝もあるようです。西郷山近辺の海抜は35m。とすると下の海抜は10m前後でしょうか。かなり高低差のある土地だということがわかります。

全体的に工事中のため草刈りなどはされておらず茫々と雑草がはえていますが、それでも裸で日焼けする方々は多かったです。


まずは1860年代の大江戸今昔巡りの地図から行ってみましょう

1860年ごろ

豊後岡藩(大分県)中川修理大夫久昭

岡藩中川家の歴史をみると13代続く歴史の中で、養子で君主になった人数はなんと5人。この時代の「血より家が大事」ということを体現している一家です。

久昭は親徳川の藤堂家から養子で幕府寄りだったために明治維新後は厚遇されなかったように思えます。

明治初期

明治初期

高低差があることが地図でもわかります。

それに川が流れていますね。高台に都合よく水が流れている感じ、これって三田用水じゃないのかな。2つ水車のマークが見えます。場所的に水車ですね。

三田用水は1664年に出来ました。笹塚には玉川上水からの三田用水の取水口があります。そこから繋がっているんですね。

https://note.com/aratanamai/n/n57f522646b40?magazine_key=m55753d28df57

さて、西郷邸は西郷隆盛の弟の西郷従道が兄の再起を願ってこの土地を買ったそうです。

明治初期の西郷屋敷は現在の国会議事堂近辺にありましたが

西郷が征韓論に敗れて薩摩に帰ったのが 明治6年 1873年

西南戦争を起こしたのが 明治10年 1877年

ということから明治6~10年の間にこの地を買ったということになります。西郷従道は薩摩の重鎮ですから、住むところは自由自在です。

明治後期

明治後期

西郷邸の表記があります。

さらに西には池のある庭園もあって、これも大名庭園の名残でしょうね。立派です。戦後は埋めたてられて国鉄の職員宿舎が建っていましたが、現在は管刈公園として庭園を再現しているようです。

西郷家の住まいとなったこの地ですが、この地を買った西郷従道は1902年、明治22年に死去、跡をついだのは従道の次男の西郷従徳。

三田用水沿いの水車だとおもっていたところが綿工場となって、あと一つは水車です。そして三田用水の水を当て込んで、この下流にある場所に1889年 明治22年にエビスビール醸造所が完成。

大正時代 関東大震災前

大正時代

この時代は西郷山公園というものもなく、三田用水沿いの勾配の急な土地ということがわかります。勾配もキツイので利用しようがなかったのでしょう。

西郷邸の庭の池も三田用水から引いていたようです。

代官山のオシャレスポットも100年前は針葉樹林だったことが地図で確認できます。

昭和初期 戦前 1930年頃

戦前

三田用水が見えなくなりました。1929年 昭和4年以降、恵比寿の大日本麦酒の負担があり、暗渠化がすすめられたということ。

関東大震災後に郊外に住宅が増えるのですが、この近辺はあまり住宅がないです。

このあたりの土地は勾配がきつい場所が多々あるので、あまり住宅地としては難しい面があったのではないかとおもいます。

今のように旧山手通りとして、そこそこの広さのある道路ができたのも、関東大震災以降の話なんですね。

西郷家は1941年 昭和16年に渋谷(今の神宮前5丁目)に移転。

渋谷移転となるきっかけとなったらしい出来事が

1933年 昭和8年 川俣初太郎貰い子殺人事件

当時は堕胎は犯罪だったので、犯人が「こどもやりたし」と広告を出している主のもとに出向いて、養育費をもらって引き取っては殺して西郷邸の裏に埋めたと。その数5年で25人。なんとも胸が苦しくなる事件です。

場所の方は定かではないですが、西郷邸の裏というと場所的にこの辺りも含まれているんですね。そんなに人の庭に入り込めるのかなともおもいましたが、範囲がひろくて六義園の岩崎邸のように塀で覆っているわけではないので入り込めたのでしょう。

西郷家の当主従徳は1946年に亡くなりますが、次男は古河財閥の4代目です。政治と経済のつながりを感じますね。

戦後、高度経済成長前夜 1955年頃

戦後10年

西郷邸跡は庭園も埋め立てられ、空き地になっている感じです。西郷山公園はまだ出来ていません。

バブル期 1990年頃

バブル期

西郷山公園は1981年に開園して現在に至ります。

ブルーシートで工事中の様子
2022年夏現在、唯一の遊具

今回、西郷山公園の一部しか行きませんでしたが、西郷邸は西に広がっていたことを地図で確認できました。

おりをみて西郷邸跡からの東京時層地図を楽しみたいと思います。


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