【港区】青山霊園 大久保利通墓 その2
年末あたりから自覚的な不整脈がでていた。脈が飛ぶ。胸に不快感があるので気になっていた。
私は生まれつき心室中隔欠損症というものをもっており、心臓の心室かから一方通行的に血液が漏れているらしい。
高校卒業までは定期検診に行っていたのだが、運動制限は無かったので、上京と同時に30年間ほったらかしとなった。
健康診断では要検査と言われても、ああ、そうですね。病院いかなきゃですね。で済ませてきた。
ついにツケが回ってきた。ネットを見るとロクな事が書いていない。40、50で亡くなるとか書いてある。覚悟を決めて循環器系を受診しなければ。
しかし、とにかく怖すぎる。自分の心臓の音を聴くだけで体の力が抜ける。
いや、ここまでハッキリ自覚できていたら、しのごのいわずに覚悟を決めなければ。
でもどうやって。
覚悟を持って生きた人に触れれば、小心者の私も自分自身と向き合えるのではないか。
覚悟を持って生きた人物は誰だろう。口先だけではない覚悟だ。
明治維新はみな強烈な覚悟を持って生きていたのではないか。
明治維新といえば、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允。
そういえば、過去に大久保利通の墓に行ったことがあった。
5月14日は大久保利通の命日だ。
1878年5月14日
現在の国会議事堂あたりにあった大久保邸から、明治天皇の住まいだった赤坂御用地に馬車で向かう途中、紀尾井坂にて石川県の不平士族に襲撃され亡くなった。
以前、旧大久保邸の国会議事堂あたりから襲撃現場までのルートを憶測であるがたどったことがある。
一般的には大久保慰霊塔のある清水谷で襲撃されたということだが、個人的には議員会館あたりで襲撃されたのではないかと思っている。
当時は赤坂御門の枡形門が存在し清水谷にいくには弁慶橋もなく、道路も狭く、馬車は狭くて入りにくいうえにクランクになっている。
襲撃され逃げた従者が北白川宮邸に助けを求めたということは、清水谷から崖の上の北白川宮邸まで駆け上がっていかなければならない。
襲撃されて、もと来た道を引き返して北白川の宮邸に助けを求めたほうが自然だ。
さらに明治後期から議員会館前に鳥居のマークがあらわれ、戦前の地図まで存在する。これは大久保を祀った祠なのではないか。
大久保利通の事は特に興味があるわけではない。
明治維新は西の人達が主人公の物語だ。
栃木県の農民だっただろう私にはあまり関係ない話だ。
しかし東京時層地図で明治期からの東京の地図を辿ると、東京というのは薩長の歴史でもあるので、当然触れることになる。
大久保利通は死んだ時に僅かな現金と建物を抵当にいれた借金があった。
佐々木克監修の「大久保利通」によると残っていた現金は75円、負債は2万円。もらった珍品などの価値は2,3万の価値はあったようだ。
貨幣価値は2900倍から7500倍とかなり幅がある。
ザックリ5000倍ということにすると、残っていた現金が37万円で負債は1億円。珍品などを売りに出せば借金がトントンになる計算だったかもしれない。
ウィキペディアによると公共事業に突っ込んでいたらしい。福島県郡山に安積疏水の開通に尽力した大久保利通を称えて建立された神社もあるようだ。
この時期の国のトップの権力は絶大だ。
私財を蓄えることは自由自在だったはず。
将来の為、家族の為、言い分はいくらでもつくれる。
国の実質的な最高権力者が、私財を公共工事に突っ込んで借金が1億円あったということは意外だ。
一般市民である私が給料から生活費を差し引いて残った分をだれかの為に寄付できるかといえば到底できない話だ。
現代人には想像もつかないような重責を全うしようとして生きていたその覚悟の一端に触れ、私もせめて自分の身体と向き合える覚悟が欲しい。
そうだ、青山霊園に墓参りにいこう。
2023年5月14日。
スマホゲームに興じる娘を自転車に乗せ、一路青山墓地へ。
青山墓地内のベンチに自転車を止め、墓へ向かう。
墓地には青山墓地見学ツアーとおもしき一団体が、ガイドさんの話に耳を傾けていた。
私は大久保の墓前で手を合わせ目をつむっていると、なぜか背後から娘がスマホを執拗に連写しまくる。バシャバシャバシャバシャ。
ガイドさんの声が響く
「大久保利通は~紀尾井町にて石川県の不平士族によって襲撃されました。少し前に岩倉具視が喰違坂で襲撃されて、それでも大久保が襲撃されるという警備体制の甘さが問題になったようです~」
娘のスマホ連写は止まらない。バシャバシャバシャ。
目をあけると大久保が好きだった碁が置いてあるのが目に入った。
来年は花をもってこようと思った。
ガイドさんの間延びした声が響いた
「まぁまぁ~それなりに立派な墓になってますー」
くっ、僕は今しがた墓前で手を合わせていたのだけど、大久保の扱いが軽いな。
ガイドさんは大久保嫌いの人か、多いもんな大久保嫌い。
「ちなみに今日は命日なんですよ。」
と、思わず口をはさみそうになったが、差し出がましいと思って止めておいた。
没年齢が47歳で48歳になる年だったということなので、今の私と全く同年齢ということになる。
平素、自分のことばかり考え、余裕があるときには、精々妻と子くらいの事しか考えず、あとは全部自分の都合のいい様に考え生き、隙があれば幸せになりたい楽していきたい、なんなら宝くじでも当たったら、投資信託で年利5%でちょっとした生活の足しになるかぁなんて・・・。
奥さん曰く「しみったれた生活」を夢想している私には、身銭を切る大久保の覚悟に、背筋の正される思いがするのであった。
後日、循環器系内科に診療に行き、不整脈は期外収縮で問題ないとの事だった。
心室中隔欠損の評価も1.3で手術適応ではなく、この歳まできたから今後も悪化もなく変わらないだろうとの事。期外収縮にはカリウムが良いとの事で、お菓子をやめてバナナばかりを食べている。期外収縮は収まった。
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