【渋谷区】大山公園
以前から気になっていた渋谷区の大山公園前を自転車で通り過ぎたので東京時層地図を開いてみました。
小田急線代々木上原駅、京王線幡ヶ谷駅の中間になります。
渋谷区の区立公園では一番大きい公園となりますが、野球グラウンドが2面取られていることから、一般に利用できる部分はそれほど大きいものではないと思います
(公園内に入っていないので確認していません・・後々訪問して追記しようとおもいます。)
現代の地図2023年
幡ヶ谷、笹塚、代々木上原駅が最寄りとなりますが、徒歩15分以上のなかなかの距離があり、近所の方や少年野球の試合をする方がほとんどだと思います。
大山公園の北には消防学校、代々幡斎場、JICA(ジャイカ)の施設があり
公的なイメージがあります。
南側は高級低層マンションが並びます。反面、コンビニやスーパーは見かけないので、庶民が住むには駅から歩くし坂道もあるしで結構大変なんじゃないかなと思ったりもします。(今は電動自転車があるのでそれほどでもないか)
閑静な住宅街ということになりますが、裏を返せばちょっとの物音でも気になっちゃうという環境になるので、それもまた良し悪しかなと。
一定以上のお金持ちであれば暮らしやすいかもしれません。
前回の東北沢訪問で、ここ一帯が高級住宅街化したのは小田急代々木上原駅開通に伴って土地開発に目をつけたコクド(西武)のドン、堤康次郎の計画だということがわかりました。
現在周辺は三菱地所が開発している建物がおおく、西武は往時の勢いはない。なにかのタイミングで三菱に移ったのかもしれません。
明治初期1875年頃
○あたり一面の雑木林。明治初期にはこのあたりは広大な雑木林だったことがわかります。南にある茶畑が後の大山園になるのでしょう。
茶畑は明治以降の旧士族の食い扶持作りとして盛んにつくられたと聞きます。
○北側の火葬場はこの時代にも存在しています。歴史がありますね。
さらにさかのぼって
江戸末期1855年頃の地図をみると
火屋 ○里 狼谷
四谷 西念寺
四谷 勝興寺
四谷 戒行寺
麹町 栖岸院
とあります。
西念寺は服部半蔵が作ったお寺
麹町の栖岸院は現在は杉並区にあるようです。
四谷や麹町からだと距離は結構ありますが、甲州街道一本で来れるから都合がよいのかしら。
○東側には玉川上水と三田用水が分岐しているようすがみてとれます。
明治末期1910年頃
○甲州街道沿いに井村病院というかなり大きな病院
しらべると新宿脳病院という精神病院が改名されて井村病院となったようです。戦災で廃止。
跡地にあるマンションを調べてみたところ住民と管理組合で揉めて大騒動になっていた物件でした。
12月4日にダイヤモンドオンラインで有料記事になっていました。業界では有名だったようです。
・知人を泊めると一万円要求される
・夕方以降の医療介護関係者訪問禁止 日曜祝日訪問禁止
・浴室のリホーム禁止、バランス釜のまま
・工期ひと月以上のリホーム禁止
・ベビーカー禁止
大騒動になっていた時期は40平米10万円とかなりお得な値段設定だったのですが、騒動が落ち着いてからは周辺地域にあわせた築年数なりの値段になってしまったようです。
変わった外観のマンションだったので印象的でしたがそんなことがあったんですね。
夜中に前を通るとピンクのライトアップがされていたような記憶もあるんですよね・・・気のせいだったのかもしれませんが。
○阪川乳業場
阪川という名前は聞き覚えがあって、明治に入ってから乳業を始めた麹町の旧士族が阪川さんだったという記事を書いた覚えがありました。
明治後期になって都心での乳業が禁止されて、郊外であるこの地に越してきたのかなと。
地図を追うとなぜか牛乳の歴史にも詳しくなってしまうという。
酪農は旧士族の仕事だったというのは興味深い所です。
阪川さん一族もいまもこの辺りでは大地主なのでしょうかと気になるところ。
大正関東大震災前1920年頃
○周辺には道路があるのみ。
起伏に富んでいることから渋谷のリアス海岸の先端部分だったことがわかります。縄文の昔はここまで海水が入り込んでいたんですね。
このあたり掘ったら貝塚が出てきそうな感じ。
いや、絶対に出てきているでしょうね。
しかし後々のゴリゴリの土地開発がそれを許さなかったと。
近隣の代々木八幡でも縄文遺跡がでているし、同じ渋谷区恵比寿の台地にも豊沢貝塚が発見されている。渋谷区で発見される縄文遺跡は縄文時代中期ということですが、縄文時代中期といっても1000年続いているわけで途方もない時間が流れているんですね。東京時層地図で追っているのはたかが150年。
○大正2年に大山園も出来ています。現在のユニクロ柳井さん邸です
昭和初期戦前1935年頃
○阪川乳業場は祖師谷に移転して阪川養牛場となったようです。ということは阪川家はここは立ち去ったか。
その阪川養牛場はバブル期には住宅地と名糖産業(個包装のアルファベットチョコレートで有名)の工場となり、現在はパークホームズ千歳烏山ガーデンズコートとなっています。
阪川家の方々今はいずこ。祖師谷の地で大地主かもしれません。
○関東大震災後ということで一気に住宅が広がっています。
しかし、現大山公園の北は谷ということもあって宅地化されていません。
○小田急線の代々木上原駅が昭和2年に開通、昭和6年には箱根土地株式会社が周辺を宅地化、この箱根土地株式会社はのちの西武グループのドン、堤康二郎
この当時、箱根の開発を巡って小田急と争っていたみたいですし、その小田急沿線を高級住宅街化をしてしまう強引な手腕、まさにピストル堤。
この時代の鉄道王達の物語は上澄みしかすくっていませんが面白いです。
東武のドン根津邸にかかるように路線を通す東急の五島慶太とかどうなってんだろうとか。
高度成長期前夜1955年頃
○突如として北側に東京医療少年院ができます。
○西側には消防学校と消防庁機械工場
○この当時は玉川上水も暗渠化せずに川がながれています。
バブル期1990年頃
○なんとなくこの周辺に公的な施設が集まっている気がします。
関東大震災後、周辺には住宅がふえたものの谷地だったために住宅には適せずに、空き地がありそれを利用したものなのでしょう。
○この当時は甲州街道と井の頭通りを結ぶ都道420号は無かったんですね。つい最近だったんだ。これは発見。
○原宿方面から環七を結ぶ、井の頭通りもこの時期には道路幅も狭かったようです。
対面では三菱地所が宅地開発中、ザ・パークハウス代々木大山レジデンス8000㎡超 高級低層マンション。縁がありませんがそれもまたよしです。
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