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【千代田区】大名屋敷→陸軍練兵場→日比谷公園

今回は日比谷公園から東京時層地図です。

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明治維新前は毛利家上屋敷など大名屋敷が集まっていました。

「アプリ大江戸今昔巡り」

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ざっと

毛利慶親 長州藩の第13代藩主 36万9千石

鍋島直正 肥前佐賀藩10代藩主 35万7千石

吉川経幹 岩国藩初代藩主

南部利剛 陸奥国盛岡藩の第15代藩主。20万石とけっこう大きい。

有馬氏郁 下野吹上藩 1万石

朽木綱張 3万2千石

小笠原長国 肥前唐津藩主 6万石

明治維新に際して薩長土肥の大名だった毛利鍋島はいちはやく新政府に土地を提供したということで、これらの大名の土地は大きく使われることが多いです。旧防衛庁、現六本木ミッドタウンも本家毛利邸跡です。

桜田御用屋敷というのは亡くなった将軍の側室が尼となって住んでいた所のようです。

明治初期は更地となり陸軍練兵場に

明治維新で当時のヒエラルキートップのお屋敷その他があっというまに更地になるんですからインパクトはすごい。

明治初期

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鹿鳴館もありますね。鹿鳴館の場所は島津屋敷でしたが、練兵場南に島津屋敷があるので移転したようです。

出来たばかりの日比谷練兵場ですが

明治11年 1878年に西南戦争後の賞与の不平をもつ陸軍近衛兵が暴動を起こす竹橋事件が起こります。

指導者の岡本柳之助は追放、その後は縷々転々としてソウルにわたって陸奥宗光らと袁世凱との交渉に・・・混乱の時代には優秀な人物ってどう転んでも誰かに必要とされますね。

竹橋事件をきっかけに練兵場が現代々木公園や神宮外苑に移されることになったという記述がありました。

たしかに移転が早すぎるように感じます。


明治後期 

練兵場は二分割され、半分は官庁、半分は日比谷公園に

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本多清六らによって1903年(明治36年)着工仮開園

日比谷公園 明44.4

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奥にみえるのは司法省と大審院控訴院及び地方裁判所(だとおもいます方角的に)

この東側の池ですが、明治初期の地図をみると、皇居のお堀の一部です。現在もあります。

地図だけしかみていなかったので、スゴイ発見だとおもったら、心字池として残すことは当初からの計画通りだったようで、地図だけみていると陥りがちな事ですね・・・

古写真をみると東屋の左に街灯のようなものがありますが、これがアーク燈ではないでしょうか。公園に70基あったようです。いまも2基のこされています。

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こちらは馬や牛の水飲み。当時は交通手段や輸送手段が牛馬だったということはピンときません。電車はすでに走っているんですよ。

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公園内には鉄棒や雲梯などの大人用のアスレチック器具が置いてある場所があります。

案内板をみると開園当初から健康器具が置かれていたようです。120年の健康広場としての歴史があるってすごいですよね。ここで運動なさるかたは日本で最初の運動公園、120年の歴史を感じているとか・・・いないとか。

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運動公園から北に目をむけると、こんもりとした山の上になにやら塔が建っています。木々が生い茂っていますが、できた当時は木がない。これは結構な驚きなんですよね。

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リバティベルのレプリカ これは戦後寄贈されたもののです。

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リバティベルとは

アメリカ独立戦争のシンボルで1752年鋳造、アメリカ独立宣言の民衆の招集の為に鳴らされた、国際的な自由の偶像という大層な代物です。レプリカはアメリカ国外にはベルギー、ドイツ、イスラエルと日本にあるんだとか。お昼に鐘がなるようになっています。


大正期

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大正時代の日比谷公園の写真ですが木々が低い。100年経って現在のような木々の生い茂る公園になりました。

100年前より木々が豊か。それが都心の特徴の一つだと思います。

昭和期

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昭和4年 1929年 日比谷公園に日比谷公会堂ができます。

東京市長 後藤新平が発案し、安田財閥の安田善次郎がお金をだし、栃木の天才建築家 佐藤功一が設計。現在は閉館中です、会館当時の状態に戻したいのですが、もどしてしまうとトイレの数が足りなくなって、法的に引っかかるので、工事等も止まっているようです。

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1980年公開の映画「野獣死すべし」のエンディングで松田優作が撃たれた階段

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公園に面しているのが日比谷公会堂、外堀通りに面しているのが市政会館です。日比谷公会堂は閉まっていますが、市政会館はオフィスとして図書館として開館しています。市政会館をオフィスにできるなんてブランドですね

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んーかっこいい。


高度成長期前夜 1960年代

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日比谷公会堂は戦災を免れています。GHQに接収されているので空襲前から計画的に爆撃を避けられた施設だと思います。

バブル期

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現在の地図をとりわすれていたのでこれで代用。

今回、日比谷公園内の運動広場は120年の歴史を誇る日本最初の運動公園だったことと、池は堀だったこと、開園当時は木々はまばらだったことなど新しい発見がありました。また発見次第追記していきたいと思います。

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