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【新宿区】戸山公園近辺

小石川後楽園、六義園という大名庭園に触発されて旧大名庭園である新宿区の戸山公園に行ってまいりました。こちらは尾張徳川家の下屋敷にあたります。

箱根山の中腹にある石碑 陸軍戸山学校址

箱根山という山手線内で一番高い山(なんとここは庭園の築山)があり、運動場があり、子供の遊具もあるという区民憩いの場所です。

北は学習院女子大学、都立戸山高校、東には早稲田大学など有名大学があります。

我々がセルフタイマーで写真を自撮りしていたら「撮りましょう」と写真を撮ってくれた学生の方がいました。さわやかでしたね。

これからの日本を背負って立つような気風を感じました。社会に出て色々と悩みもあるかもしれませんが、きっと乗り越えられることとおもいます。
ありがとうございました。

現在の地図

南の大久保通りと北の都道25号、この間が尾張徳川下屋敷となります。広大な土地です。

もっと皇居側に近ければ紀州徳川屋敷の赤坂御所のように御所になっていたかもしれません。明治新政府としては軍用地をつくるからと沢山人が住んでいる所を移動させるというのは大変なので、将軍家の広大な土地をそのまま利用したほうが色々と都合が良いのだと思います。

今日はこのあたりから東京時層地図を見てみます。
1860年頃 大江戸今昔巡り 

なんと160年前は広大な池の真ん中。

池の中には弁財天、池の北側にはお堂や茶屋のような建物が点在します。

宝暦頃戸山御屋敷絵図 1751~1764年

広大な敷地です。箱根山の表記は「麻呂ヶ嶽」となっています。


明治9~19年の地図 大体140年前くらい

陸軍戸山学校

明治7年 1876年 陸軍戸山学校となりました。
地図上では牛込区戸山学校となっています。

このころは池がまだありますね。半分は葭だから水辺であることはまちがいなさそうです。

明23.2 東京名所図絵

高台に建っています陸軍士官学校も高台にありました。

この時代の監獄も高台にあるところから、学校と監獄というのはある程度共通点があるのかもしれません。


明治後期

明治後期

戸山学校はいまでいうところの箱根山の南側、戸山ハイツの棟が立ち並んでいるあたりです。このあたりは尾張徳川御殿が建っていた場所でもあります。

戸山学校では体操科もあり体操も教えていたようです。国会図書館デジタルに資料がありました。

明36.12 体操幇助法 陸軍戸山学校

今の時代は跳び箱は縦にとぶものですがこの時代は、横から飛んでいたようです。跳び箱は馬を模しているのでこういった形になるのでしょう。

「跳び箱はもともとは乗馬のため」というのをNHKの番組でもやっていました。

関東大震災前

大正時代 関東大震災前

一見すると今公園となっている場所はこの時代も谷地で荒地のように見えます。いわゆる戸山が原

軍用地なので立ち入りができないものだと思っていましたが、大正4年に
岩谷莫哀という歌人が歌をだしています。

穂にいでし 高草むらに けだものと なりしつもりで 寝てしまいけり
草に寝て 羽織かぶれば 小包の 横たわれるに にてさびしかり
かなしめる けもののかおをおもいつつ たかくさむらにうずくまりなく
くさのほを てにいじりつつ むしのなく はやしのかたへ 歩をうつすかな

春の反逆 岩谷莫哀 大正4年

これ、入ってますね。入れます戸山が原。


現在の学習院女子大あたりに近衛騎兵連隊があります。戸山学校と近衛騎兵との間はけっこう入れたのかもしれません。

この地図の北側に堀部安兵衛遺跡というのがあり、これは高度経済成長前夜の地図まで残っているのですが、今はさらに北の公園に移動したようです。なにかの機会に取り上げようと思います。

昭和戦前

昭和戦前期 90年ほど前

白抜き改描なんでもござれのこの時期ですが、大正時代から考えるとそれほど改描されているという感じでもないですね。

南側の砲工学校の西の工場が白抜きになっているくらいでしょうか。陸軍病院が今の国立国際医療研究センター病院となります。

以前お詳しい方に

「江戸川乱歩の怪人二十面相の第一巻の犯人のアジトが戸山が原にある」

と教えていただいたことがありました。

車のとまったところは、戸山ヶ原とやまがはらの入り口でした。老人はそこで車をおりて、まっくらな原っぱをよぼよぼと歩いていきます。さては、賊の巣そうくつは戸山ヶ原にあったのです。
 原っぱのいっぽうのはずれ、こんもりとした杉林の中に、ポッツリと、一軒の古い洋館が建っています。荒れはてて住みてもないような建物です。

怪人二十面相 江戸川乱歩

戸山が原は乱歩の想像力をかきたてるほどのものだったということがわかります。


高度成長以前

高度経済成長前夜 1950年頃

ここ近辺の地図で一番衝撃的ともいえる、戦後の戸山ハイツ群。

戦後の住宅事情改善のために建てられた家、家、家 そこらじゅうに家が建っています。木造平屋建てが1000戸あまり。

かつての尾張徳川庭園、戸山学校用地は家が立ち並ぶことになりました。

スゴイ地図ですね。今の木々の青々としている公園は、60年前はいたるところが家だったわけですからもう訳がわかりません。

地図巡りして思うのは、都内は60年前より緑が濃くなっているんですよね。木が大きくなるから当然なのですが、たとえば探せば箱根山からの眺望というのは60年前はあるものの、今は木々に覆われてなにもみえなくなっています。

木々に覆われた町というのはそれだけ平和と安定の象徴ともいえるのではないでしょうか。


バブル期

バブル期

1954年に敷地の一部を戸山公園として公開。1000戸あった木造一戸建ては高層マンション化し、現在では高齢化世帯が6割、建物も50年経過し老朽化し、今後が注目されます。

帰りに箱根山に登ってみました。

箱根山水準点

実は2年前もここにきていたんですね。昔も水準点に座り込んでいました。

2020年4月
運動場で記念撮影
この運動場も江戸時代は池、広いですね。


高度成長期前夜の戸山ハイツの名残は今でも公園の東側、南側に残っています。

築50年ほどのマンションです。

ネットでしらべると戸山ハイツは新宿の暗部的な書かれ方をしているページもあり、現場は時代から取り残された感が漂っていましたが、募集当時は高級住宅街だったようです。

そりゃそうですよ徳川御三家の尾張御殿なんですから。世が世なら征夷大将軍。東京都の持ち物じゃなくて、民間の不動産会社なら最高ランクの付加価値を付けているとおもいます。

大名屋敷だったということを考えると、自然災害に強い宅地には適した土地でもあります。ハザードマップをみても地震と洪水に対する危険度は低い場所でした。

再び高級住宅街に生まれ変わりそうな予感がしますね。

箱根山地区の歴史

まとめてみますと

1200年頃 鎌倉時代 和田義盛の領地
1668年 尾張徳川家下屋敷
1700年頃 小田原宿を参考にした街並みがある庭園完成
1790年頃 復旧
1850年代 災害にあって放置(おそらくは台風)
1878年 陸軍戸山学校用地
1954年 一部が公園化、住宅化し現在に至る

調べてみるとなかなか興味深い土地だと思います。


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