【新宿区】成子天神社周辺
成子天神社に行ってまいりました。西新宿の青梅街道沿いにあります。
明治期に北新宿の鎧神社の天神社がこの地に移動して、成子天神社となったようです。
(さらに昔は柏木北公園にあったとのこと。江戸時代だと柏木北公園は元天神となっています。今は鎧神社の天神様が元天神です。)
鎧神社と南北の位置関係にあります。
成子天神の周りのマンションも神社持ちで、新しい石像もいくつかあり、ガラス張りの新しい能舞台もあり、本殿も平成後期にできたものでピカピカ。
神社の隆盛が感じられました。高層マンションに囲まれた神社というのも都会っぽいです。
さて東京時層地図をみていきましょう。
現在の地図
北側は柏木の地名が残っているのが見てとれます。
東には近年できた高層ビル
南には東京医科大学病院
医大病院には一つ思い出があります。
娘が2歳になったくらいのことでしょうか。
夕方から夜にかけて40度の熱が出て、心配だったので救急で病院を探してタクシーでこちらの病院へ。先生は溜息をつき、
「今回は怒らないけど、子供は熱を出すものだから、こういうので病院こないでください。子供はたくさん風邪をひいて免疫を付けるもの。」
正論かもしれないけど、タクシー代その他一万円払ってなんで怒られなあかんのと釈然としない気持ちで病院を後にしました。勉強になりましたありがとうございましたー。
さらに南は都庁近辺。最初に東京時層地図で都庁近辺が浄水場だったことを知って衝撃をうけ、このブログを始めるきっかけになった場所です。
個人的に「始まりの場所」と呼んでいます。
1860年頃江戸時代末期 大江戸今昔巡り
スマホアプリの大江戸今昔巡り、こちらも非常にデキが良いです。年代的には江戸時代末期1850~1860年前後といったところ。
天満宮 円照寺持 と書かれています。
円照寺は鎧神社の隣にあります。写真家の篠山紀信さんのご実家です。
神社の沿革には江戸時代に春日局が徳川家光に土地をもらって天満天神社として社殿を造営したとありました。
春日局は家光の乳母
春日局が家光の乳母になる前の夫だったのが稲葉正成。前夫に役職をつけるために春日局が動いて稲葉正成は栃木県真岡市の城主となります。
僕の出身地は栃木県真岡市で「NHK大河ドラマ春日局」時には地元でかなり話題になっていました。1988年放送 昭和最後の年でしょうか。その時僕は全く興味がなかったですけど・・・中学生の頃ってそんなものですよね。
春日局が成子天神の中興の祖なら、春日局の夫だった稲葉正成の治めていた栃木県真岡市の真岡城(今は真岡小学校となっています)に小学校6年間通い続けて、部活で土手(土塁の上)を走っていた僕は、成子天神の縁者といっても過言ではありません。
鎧神社、成子神社、春日局、稲葉正成、栃木県真岡市と点と点が繋がっていくのが面白い所です。(無理やりつなげていっているともいえる)
神社の隣が
火消し役 岡田将監 五千二百石
将監は官位です。
岡田将監家は旗本 1631年に岐阜県の揖斐城を改築して、揖斐陣屋として明治まで存続。
5000石は旗本としては規模が大きく100人くらいが働いていたということで、地方に領地をもっていたようです。
江戸時代260年間、産まれたらずっとそのままの地位が引き継がれるという社会。まさに親ガチャの世界です。
明治初期
神社のマークがありますが、規模的にそう大きなものではなく、十二社と記されている熊野神社、今はありませんが淀橋の西に稲荷社と記されていた神社のように名前の記載はありません。
青梅街道は当時から栄えている様子がみてとれます。青梅街道は甲州街道の裏街道として関所が少なく庶民によく利用されたようです。
ここから西にある淀橋ですが「姿見ずの橋」と呼ばれ、かなりの長い間忌み嫌われており
(姿見ずの橋の起源となった中野長者伝説が1400年前半の事だといわれていので、そこから徳川家光が縁起が悪いから淀橋と変えるように言ったとされるのが1600年代中頃だとすると200年、さらにそこからお祓いがある大正期までとなると500年間!!)
大正期に日枝神社から神官数人や柳田国男らの著名人を呼び大々的にお祓いをし、見物人500人が集まったそうです。
関東大震災前の神田川と関東大震災後の神田川でかなり大きく整備されていますので、整備前の神田川というのは危険な場所だったのだろうと思います。
明治後期
成子神社の北に築山のようなものがあります。
天神山という小山で大正9年1920年に富士山の溶岩を配してできた、新宿区内最後の富士塚。
富士塚っていうからには江戸時代からの歴史のあるものだとおもったら、わりと最近でした。
明治後期の地図は富士塚が産まれる前の地図ということになります。
こちらが現在の富士塚 なかなかの登りごたえです。
頂上には祠が建っています。
天神社内には力石があります。祭事の際に持ち上げたようです。
軽くて150㎏、重くて218㎏ スゴイですね…60㎏より軽い力石はあまりなく。なぜなら米俵が60㎏だからそれより重くないと力比べにならないからだとか。
それにしても軽くて150㎏はスゴイな…デッドリフトでちょこっと浮かせるだけならともかく…世の中には力持ちはちょこちょこいます 当時のそういう人達がやっていたのでしょう。
ビカビカの神社、一見近代に建てられた新興の神社か?と思われる中で、力石とともに歴史を示しているのがこの碑
菅公一千年祭挙行之碑
明治辛丑(明治34年1901年)菅公会長侯爵 黒田長成
書が得意で全国各地の神社仏閣に揮毫していたそうです。
調べる過程でわかりましたが、明治維新後は公卿と大名はすべて東京で生活することを命じられていたとか。旧大名は土地を追われたとおもっていたけれどそうではなかったです。
北に
脳病院 現在でいうところの精神病院です。当時の脳病院というと斎藤茂吉の青山脳病院が有名ですが、こちらの病院名まではわかりませんでした。
蜀江山 今は坂として名前を残すのみですが、由来は平将門が蜀江錦の衣の袖を落とした、徳川家光が紅葉が蜀江錦のように美しいと賞賛したからといわれています。
とにかく江戸期のあらゆるところに出てくる徳川家光。あまりにも多いので史実がどうこうというより、将軍様の名前を出しておけばなんとかなるだろう的な感じもします。
平将門が出てくるのは鎧神社が近くにあるからでしょうか。
聖書学院 東洋宣教会聖書学院 1904年 明治37年柏木に移転。空襲で焼失。
淀橋浄水場 1898年 明治31年 開始
大正時代関東大震災前
関東大震災前ですがすでに住宅密集地域になっています。
北側は細い道が多い。
ということはそれだけ古い町並みなんだなということが最近わかってきました。
大正9年1920年 成子神社に富士塚ができますが、関東大震災で崩壊。2011年の東日本大震災でも山頂のコノハナサクヤヒメが落下したということもあり、この辺りの土地は地震には強くないのかなと思われます。
(と、思いましたが改めて地震の危険度をみると西新宿8丁目は台地で危険度も高くなかったです。地震が強烈だったというだけ。)
コノハナサクヤヒメで思い出しましたが、産まれてくる娘に一瞬、木花(このは)と名付けようと思ったことがありました。
昭和初期戦前
この後、1945年の空襲で神社は焼失。
聖書学園も焼失
脳病院は塩原学園となりましたが調べてもわかりませんでした。
埼玉本庄に塩原学園がありますが、昭和29年設立ということで関係なさそうです。
浄水場の改描が印象的な地図です。
高度成長期前夜 1955年あたり
塩原学園は新宿電話局へ
焼失した聖書学院も聖書学校としてあります。
東京医大病院ができます。
病院の沿革をみると
学校は大正時代に日本医科大学とケンカ別れし、病院は戦前戦後の合間にできたということになります。
ということは、今でも日本医科大学と東京医科大学はバチバチなんでしょうね。
バブル期
バブル期ですが神社の西には大小さまざまな住宅が建っていたことがわかります。
これが今では、東西に横切る通りもでき、土地は買収され、大手デベロッパーが扱う巨大ビルデング群が林立。西新宿の西側も大きく変わっています。
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