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【中央区、江東区】清洲橋

隅田川釣り歩き。今回は清洲橋です。

清州という言葉で想起されるものは清州城。
本能寺の変後に行われた織田信長の後継を決める清洲会議。

その名を冠する清洲橋もさぞかし歴史が深いんだろうなとおもっていましたが、関東大震災後に作られた橋です。

関東大震災復興工事において永代橋と清洲橋はセットでつくられたようです。

筋骨隆々の男性的なイメージである永代橋
優美な下垂曲線を描く女性的なイメージである清洲橋

この二つの橋は近代橋梁技術の粋をあつめた震災復興橋梁群の中心的存在であると橋の標識にありました。


現代の地図

ちょっと地図の範囲を広げすぎました。
隅田川と小名木川の合流地点に清洲橋があります。
テレビやラジオの交通情報で必ずでてくる箱崎ジャンクションってこの辺りにあるんですね。箱根のほうにあるんだとおもっていた(汗)

この地点で東京時層地図をひらいてみました。
少し下っていったところからの清洲橋 夜間の点灯は2020年から。ちょうどいい時期に隅田川を巡り始めました。
清洲橋から下流を望む 青いライトが永代橋です。
昼間も行ってみました。ちょうど船が通っている場面。この辺りは潮の干満の影響を強くうけますので、大潮の下げ時は激流になります。この時も下げ潮だったので、強風もあいまって船もものすごいスピードで下っていきました。

清洲橋は戦前ドイツのヒンデンブルグ橋を参考に作られているとの事でしたがなるほどよく似てます。

Cologne_Haengebruecke_1925


2000年に土木学会の土木遺産に選定、2007年に国の重要文化財に指定。
見れば見るほど美しさを感じてきます。簡素ななかにも優美さと曲線美。特に夜間のライトアップではそれを感じますね。都内には100年前の建築はそうそうないと思っていましたが、隅田川にかかる橋はそれにあたるというのは発見であります。隅田川の橋は空襲焼失を免れているので、火災に耐えられる仕様だったのか、そもそも米軍は橋を対象としていなかったのか。
清洲橋の西側には金比羅宮がありました。明治期の中州の埋め立てに際して祀られたものだとか。関東大震災で壊れて、戦後に復興。地面のひび割れ補修は東日本大地震のものでしょうか?


1875年頃 明治初期

○ 現在地、これはおもったよりもなにもない。
下には中洲渡船場とかかれています。「葭」(よし)と書かれているのでこのあたり一帯が葭の原っぱだった様子がみてとれます。

○ 中洲の南に山内邸があります。
明治維新の勝ち組大名である土佐藩藩主。
明治維新までは田安徳川邸。
この近辺、北側の浜町近辺には細川邸、毛利邸、蜂須賀邸があったりと、明治維新の勝ち組大名邸が多い。
元から住んでいたわけではなくて、幕府方の大名旗本を追い出しての結果です。
なにかしら理由のある良い土地なんだろうなぁ。

この辺りの日当たりの良い所に住みたいなとおもうこともあるけれど、地形的に地震、台風、津波、洪水などで少なからず影響を受ける場所でもあるから、地図好きとしてはなかなか難しい場所かなとも思ったりします。

○ 北に新大橋という橋があります。現在この場所に橋はありませんが、江戸時代から木製の橋が架けられていたようです。明治45年に鉄橋に架け替え。

1905年頃 明治末期


○ 中洲町、誕生!!中洲は明治期に誕生した。と思いきや、日本橋中洲町会のホームページによると、なんと中洲は1772年に築立されて、寛政の改革(1787~1793年)で更地に戻されたということです。実質20年ほどでしょうか。

寛政の改革を主導したのは老中の松平定信ですが、松平定信はここから南にある石川島に人足寄せ場を作っていますので、遊興地の廃止と囚人の収容と更生を図った様子がうかがえます。

◎江戸時代中期の明和九年(一七七二年)に隅田川の分流点の洲であった中洲は築立されて、〈三股富永町〉としてその後繁栄することとなる。
道楽山人の『中洲雀』に、「わけて月の名所は、外に中洲の涼所と、近来の大賑いも更なり。川岸には水茶屋行儀能軒をつらね、料埋茶屋跡先を押へて、船路陸路の客を留む。」
今から二百十年以前のことであった。しかし、寛政の改革の倹約令、緊縮政策の下、文化遊興地であった中洲は取り壊され、元の″洲″に戻されてしまう。

日本橋中洲町会のホームページ

○ 明治19年 1886年に中洲は再び築立。真砂座もできます。
真砂座では夏目漱石の「猫」であるを小山内薫が脚本で上演したとのこと。

○ 男橋、女橋となにやらいわくありげな名称がつけられています。男橋女橋で検索すると処刑場とか男女の出会いの場であるとかの意味があるようですが、このネーミングはどういった意味があるんでしょうか。
中洲は高度成長期で、箱崎川が埋め立てられるまでは料亭が多かったとのこと。花街ですね。

○ 男橋の東にあった、松平邸(津山松平家。江戸時代は清水徳川邸)が杉村邸となります。
華族で杉村さんとはあまり聞いたことがない。
おそらくは事業で成功した商人。

国会図書館デジタルで調べてみたところ

新材木町1に杉村甚兵衛という名前があり、この方は
東京府多額納税者、東京モスリン紡織株式會社、東京キヤリコ製織株式會社各會長、橫濱杉村商店社員、丁字屋、洋織物商
との事。

繊維業を祖業とするタイトウボウ株式会社の創始者。

明治期から続く会社。
現在は社長や役員さんに三井系の方が多いので実質三井系のグループ企業なのかもしれません。


1920年頃 関東大震災前

この地図の直後に起こった関東大震災でこの辺り一帯は被災し、復興事業で昭和3年 1928年に清澄橋はつくられます。
清澄橋の由来は中洲町と対岸の清住町を繋ぐ橋だから、清洲橋。
なかなかいい字面です。

ここからは私の想像ですが、清住町と中洲町でなぜ清住町が字頭に来ているのかというと、清住町の住人が出資したからじゃないでしょうか。
この時期の清住町は
三菱財閥の岩崎別邸
浅野財閥の浅野セメント
三井財閥中興の祖、三野村邸
と財界のドンの重要拠点となっている様子が地図から読み取れます。
清住のほうがうるさそうだ(笑)

南北を小名木川と仙台堀川に挟まれてしまって避難が容易でないので、
災害時に避難する際に清洲橋を通って日本橋方面に逃れることができる。
そんな考えもあったのかもしれません。

1935年 昭和初期戦前

○ 昭和3年 1928年 清洲橋誕生!!日本人技術者だけで造られたのだとか。指揮をとったのが田中豊という近代橋梁で最も有名な技術者だそうです。もともと鉄道マンだったのに橋を作ることになるとは、ご本人も想像していなかったでしょう。人生はなにをやりたいかではなく、巡って来た仕事を一生懸命やるしかないんだなと思ったり。

○ 中洲から日本橋方面にかかる男橋女橋の間に菖蒲橋という橋ができました。中洲には病院1つと倉庫2つの表記あり。

○ 清洲橋を通る清洲橋通りも関東大震災復興時に作られました。かなりしっかりとした幅員をもっています。

○ 清澄の岩崎邸も震災復興の為の製材所と清澄庭園に分断。浅野セメントの工場も地図をみるかぎりは稼働しているようです。


1955年頃 高度成長期前夜

○ 戦後10年ほどの地図 戦災焼失地域地図をみると、箱崎町と対岸の佐賀町は焼失を免れています。
これは極めて希で、深川区は殆どすべてが焼失地域なのですが佐賀町だけは残っている。

戰災燒失區域表示帝都近傍圖

理由を地図から読み取ろうとしましたが、箱崎町と佐賀町の共通点は倉庫が多いということくらいでした。

倉庫になんらかの物品があり、それを戦後利用するということを考えるとそれが空襲を避けるという理由にもなるかもしれません。


○ 1950年代に首都高速道路化が計画されて、1959年に着工開始。


1990年 バブル期

○男橋女橋のあった箱崎川は首都高建設により、1971年に埋め立てられ消滅。中洲が中洲ではなくなってしまいました。

○ 金比羅宮も1955年以降に再築されたようで地図に表記もありました。

○ 隅田川テラスが出来た今、一番いいのは今だと思います。

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