【千代田区】清水門と北の丸公園。吉田茂像、近衛1,2連隊碑、北白川宮像
今回は九段下の駅から、清水門を通り北の丸公園にいってまいりました。
途中で千代田区観光協会に立ち寄り、職員の方と少しお話をしました。
江戸時代の地図をもって周辺回っている方は多いとの事でした。
明治政府が不要と消し去ったものが今は観光の目玉ですから皮肉なものですね。
今回は清水門。創建年代は不明、現在の門は万治元年(1658年)に再建
いままで江戸三十六見附の名残を探してきて、昔の写真を眺めるだけだった枡形門ですが、完ぺきな形で残されている姿には感動です。
清水門の昔の写真をさがしてみましたが、ちょっと出てこなかったです。
虎ノ門も赤坂門も市ヶ谷門も牛込門も数寄屋橋御門も四谷見附も、在りし日はこんな感じだったのだということを、現在確認できる数少ない史跡です。
今回は清水門から入って道なりに歩くと吉田茂像がありました。
1981年建立
吉田茂(1878年~1967年)第48~51代総理大臣
終戦後の外務大臣、総理大臣というキーマンです。
吉田茂の経歴を辿っていくと
薩摩の大久保利通→次男の牧野伸顕→娘婿の吉田茂→その孫の麻生太郎と政治家の系譜が続いています。
さらにあるくと小高い丘があります。ここが北の丸公園露場。
東京の気温はここで計測されています。
森に囲まれた風通しのよい芝生の上。
コンクリートとアスファルトに囲まれた場所との気温の違いは明らかなので、東京の気温といってもあまり現実味がないかもしれません。
北の丸公園露場そばには近衛歩兵第二連隊の記念碑があります。
この碑の裏面には銅板でびっしりと名前か書かれています。
この地にきた目的として、知人のご祖父が近衛兵だったとのことでその方の名前を探しました。
そして発見しました。お役にたててうれしいです。
さらに進んで池のほとりの東屋から東京時層地図をみてみたいとおもいます。
江戸時代末期の地図
周辺は植溜御用地とあります。植溜とは火除け地の利用方法の一つで植木を置いていたようです。
文明開化時の地図
近衛歩兵営、練兵場、体操場などがあります。
明治後半の地図
南に北白川宮銅像が建てられました。
北白川宮能久親王は明治維新後に赤坂見附近辺に住居があり、このブログでも取り上げたことがあるので個人的になじみ深いお方です。
真ん中の北白川宮能久親王は戊辰戦争時には幕府方の盟主となり、明治政府時は近衛師団長を務めていて、台湾で病死。波乱万丈な人生です。戦後まで神として祀られていた神社が60ほどあったようです。
近衛歩兵師団との関連から銅像が建っているのだと理解できました。
銅像は現在場所をすこし移動しています。
明治後期の明治43年 1910年、近衛師団司令部庁舎が建てられ、いまも現存しています。
現在は入館できません。持っているのは東京国立近代美術館との事。希少な明治建築ですので有効利用してほしいですね。
大正時代
近衛師団司令部の表記がありますね。この後の関東大震災も建物は崩れていないことから、地盤も悪くないのかもしれません。
戦時中
軍の施設なので改描がされていますが、意外にも陸海軍官衛のマークは残っています。
戦後、近衛1,2連隊跡は警察学校に様変わり。
バブル期
北の丸公園整備にともなって北白川宮銅像はすこし西に移動。
1969年 昭和44年に昭和天皇の還暦を記念して開園された国民公園です。
国民公園は新宿御苑と皇居外苑と京都御苑の3か所。
このパンデミック下でわかりましたが、例えば都立公園が閉まっているけれど新宿御苑はやっていたりというような運営の仕方の違いがあると思いました。
こうしてみると清水門は交通の要所ではなかったから、現代まで生き延びているということも言えると思います。
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