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【新宿区】新宿パークタワーの銀世界

新宿中央公園の南、消防署と東京ガスと医大の看護師寮と、丹下健三設計の新宿パークタワーの間に挟まれた小さな空間に銀世界稲荷があります。

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石碑に書かれていることによると、銀世界稲荷の由来としては、江戸時代某大名の下屋敷で、庭は銀世界と呼ばれた梅林で梅の名所だったそうです。某大名とはどなたでしょうか。

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ただ1860年代(江戸末期)の地図をみると角筈村の一角というだけで、どの大名かはわかりませんでした。

近い所でいうと、

北に陸奥中村相馬大善亮より借地 但馬豊岡藩(兵庫)

京極飛騨守高厚 一万五千石

北東に上野館林藩(群馬)

秋元但馬守志朝 ゆきとも 六万石 有力大名の毛利家出身

というどちらかになります。

地理的に近いのは京極高厚のほうですが(ちょうど銀世界は南側に位置します)が、石高の大きい秋元志朝の線もありえますね。石高の見た目の財政的な余裕は秋元のほうがありそうな気がします。

(追記:どうやら秋元屋敷だったのようです。館林出身の小説家、田山花袋が館林藩に勤めていた義兄のもとに通って銀世界のことを作品に書いているようです。)

石碑に詳細は文字数の関係で省略されたのでしょう。

明治時代後期

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銀世界の表記がありますね。

大きな屋敷も現れました。

福羽邸 福羽逸人 農学博士 新宿御苑の設計者 

養父は福羽美静 津和野藩士で幕末の藩の意見を長州よりにまとめた人物。

山内邸 明治後期だから山内豊景ですね。山内家は土佐藩主の元大名ですがもともとここに屋敷があったわけではなく、明治維新後に此処に移動したようです。明治維新後の勝ち組特権でしょうね。

大正時代

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ガスタンクができました。

やっぱり当時でも揉めたらしいです。名物の梅林が巨大ガスタンクになっちゃうわけですから

大正6年 武蔵野巡礼

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これにて銀世界の梅は芝公園の丸山古墳近辺に移植されました。芝公園の銀世界には過去に訪れていました。

港区芝公園の 銀世界の碑

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明治41年~42年頃に芝公園の16号地グランドに移植され、道路拡張にともない昭和41年にこの地に移植されたとのことです。

石碑は梅屋敷内にあったもので、琉球の棟応昌のもの。(天保3年ということですから、1832年あたり)

大正時代に突然現れた謎の祠(神社)

そして前回、謎だった現新宿公園に大正時代に突然現れたお社。

もともと銀世界にあったものを移動したと考えると、整合性がでるかなとおもいました。

前回は、大正時代にあらわれたお社はちかくに池があるから弁天様で、その後は熊野神社に移動と考えましたが、現在、熊野神社にある弁天様は十二社のものと考えると、じゃあこの神社は弁天様ではないのかなと。

銀世界稲荷は梅の移転先である芝にもお稲荷様があるので繋がっていると思います。

昭和10年頃 1935年 戦時中

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戦時中につきガスタンクはやはり白抜きされています。

東京時層地図 昭和11年航空写真 ガスタンクはありますね。

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道路は今と変わらないように見えます。大正時代を境に都内の地図ってガラリと変わるんですよね。関東大震災以降の帝都復興計画で整備されたと関連付けてしまいます。

戦後高度成長期前夜 1960年頃

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ガスタンクは2つになっています。戦後10年以上経っても宅地がまばらにみえるのは空襲の影響が大きいのでしょう。

バブル期 1980年後半頃

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当時都庁は建設中。丹下健三設計によって、1991年に第二庁舎が完成。そして1994年に新宿パークタワーが完成。

都庁と新宿パークタワーは似通った雰囲気でしたが、丹下健三なんですね。

新宿パークタワー

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都庁第一庁舎

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改めてみると似てますね


高層ビルに囲まれた簡素なお稲荷様の祠。

このお稲荷様は祠は銀世界にあって、銀世界がなくなったあとに北側に移動してまた戻ったと考えました。どうでしょうか?

今日もありがとうございました。

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