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【港区】東京都庭園美術館&国立科学博物館付属自然教育園

※ロシアに関する記述が含まれていると表示がでていますが、小島惟謙について触れているだけです。

東京都庭園美術館と国立科学博物館付属自然教育園に行ってまいりました。

最寄りは目黒駅か白金台駅になります。白金台駅からのほうが道は平坦です。(我々は自転車で行きました)

今日は庭園美術館の旧朝香宮邸より東京時層地図です。敷地が広大なために地図は引いています。

入った途端に次に行きたいなどと小競り合いをしたので両者若干ひきつり顔

まずは江戸時代の地図から見てみましょう。アプリの大江戸今昔巡り 1860年代ごろ

松平讃岐守頼胤(まつだいらよりたね)1811年~1877年

讃岐高松藩10代当主 
讃岐高松藩は1640年に生駒氏が改易転封され、1642年に高松松平氏が入る。

高松松平氏は水戸徳川の分家で、初代藩主の頼重徳川光圀の兄。

2人は仲が良く、その後は光圀の子を讃岐高松藩の藩主にしたり、反対に頼重の子を水戸藩の藩主にしたりと、こういったことは何度か繰り返され、最後の将軍徳川慶喜は頼重の直系子孫にあたるなど、かなり密接な関係にあったようです。

当時の当主の頼胤は、徳川光圀や松平頼重の兄弟の松平頼元の子孫。

ということから讃岐高松藩は江戸時代には親藩だったことがわかりました。

地理的には外様大名で松平の名前をもらっただけかとおもっていました。

敷地は4万坪でいわゆる東京ドーム3個分くらいです。東京ドーム一個の大きさもあまりピンとはきませんが・・・参考に東京ドームの写真撮ってきました。

東京ドーム1個が大体これくらい。

さて明治初期の地図に行ってみましょう。

お屋敷の残り跡みたいなものありますが、海軍火薬庫という字が目を引きます。この近辺って海軍の施設が多いです。ここから北西の中目黒には現在の自衛隊、旧海軍の施設もあります。

この時代の地図をみると中目黒が海軍火薬製造所で、ここが火薬保管庫のようです。



明治後期

白金火薬庫、衛生材料廠とあります。

中目黒で作った火薬を白金のこの地にもってくるまでの軍用軌道などもあったようです。

衛生材料廠は軍で使う薬品などを扱う場所で、以下は昭和戦時中に海軍薬剤官をされていた方のレポート

明治のはじめ以来日本海軍衛生学の歴史の主流は脚気との戦いにあった.明治大正にかけて下士官兵は黒い麦飯を食わされ,農村出身の兵はパン食を嫌い,軍艦の周囲に捨てたパンがあふれた.海軍主計官は製薬会社ヤシマ化学を育成し,味噌汁用の混汁用ビタミンを開発した結果,艦艇に関する限り脚気は絶滅した,ラバウルでは海軍病院が辞を低くして軍需部の主計科士官に頼んで混汁用ビタミソの粉末を頒けて貰うと共に,薬剤官はオリザニン(三共)に含まれる酵母生菌を芋に分離培養し,B1製剤の生産に励んだ.ちなみに戦争中海軍が払った米代よりもB1代の方が大きかったという.

https://www.jstage.jst.go.jp/article/faruawpsj/15/4/15_KJ00002913456/_pdf/-char/en

ちょっとはずれますが、北側の伊達前、伊達跡地名が気になります。
とおもったら、江戸時代は

伊予宇和島藩 伊達遠江守宗城
信濃高遠藩 内藤駿河守頼寧

の屋敷でした。

伊達宗城は明治の初期に民部卿大蔵卿になって鉄道建設の為の融資をイギリスから取り付け、世界周遊の旅もしているようです。

今年2022年、鉄道150周年。150年前に尽力していたんですね。

他に、ロシアのニコライ2世が襲われた大津事件で司法の独立を維持したと高く評価されている小島惟謙は伊達宗城の元臣下となります。

内藤頼寧の菩提寺は新宿の太宗寺ということは・・・新宿御苑の内藤新宿の内藤さんでした。

内藤家は3万という大名のわりには異例の大きさの土地を与えられています。家康の小姓だった内藤清成はお気に入りだったようです。

南は六軒茶屋という表記があります。今は消滅しているようです。歴史からは消えていますが六軒の茶屋があったのでしょうね。

大正時代

海軍火薬庫は白金御用地となりました。海軍から皇室所有へどういったいきさつがあったのでしょうか。

自然教育園は池や湿地帯といった自然一杯の敷地ですが、この当時は見る限り一つしかありません。これが今に伝わる瓢箪池。地図的にみると昔からあるのがこの瓢箪池であとは戦後作られたもののように見えます。

池がいくつかあるので記憶が定かではないですがこちらがひょうたん池かもしれません。亀が甲羅干ししているのが印象的でした。


昭和初期

昭和に入り、白金御料地は継続していますが戦時中は防空壕をつくったり、畑を耕したりとしていたのだとか。

衛生材料廠は上大崎長者丸海軍大学校となりました。

東側の長者丸という表記は室町時代にこの地に住んでいた白金長者に由来するようです。当時の土塁と館跡が残っているといわれています。

土塁

室町時代かー(1336~1573年)・・遠いですね・・・室町時代だけで240年ちかく。

東京時層地図で明治初期から精々150、60年の歴史の範囲でやってますからあまり長い時間には頭が耐えられないんですよね 奈良京都にいったら呆然とすると思います。

我々の今生きてる時代も後世からみれば、明治、大正、昭和、平成、令和、これも国の体制がまるっきり変わるまでは、東京時代とでも名付けられるでしょう。


高度成長期前夜1950年代

外務大臣公邸とあります。

案内板にはここは旧朝香宮邸として紹介されています。

旧朝香宮邸は昭和8年竣工ということから、昭和の地図には載っていなかったということでしょうか。日比谷公会堂とか国会議事堂とかの時代ですね。

朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう)1887年~1981年
軍人皇族で戦後は皇籍離脱し、私邸を外務大臣公邸として貸出、熱海の別荘で悠々自適の日々を送ったとか。

戦後は吉田茂が気に入って外務大臣兼総理大臣公邸としていたようです。

正面斜め アールデコ建築 他のアールデコ建築はエンパイアステートビル、クライスラービルもアールデコ建築らしいです。ということはそれらを真似ている代々木のNTTビルもアールデコ風なのか。
玄関の狛犬 朝香宮が気に入って設置したようです。和洋折衷という感じですね。
正面から向かって左側面
奥には管理棟 改築前は迎賓館として利用されていた建物が建っていたとか。
庭園美術館という名前の通り、茶室や庭園が整備されています。紅葉の時期は人気になりそうです。
池には鯉が泳いでいました。綺麗なお庭です。

バブル期

バブル期

1950年には西武鉄道に700万円で払い下げられ、1955年4月に白金プリンス迎賓館として開業し、国賓・公賓来日の際の迎賓館として1974年まで使用された。1971年にホテル建設計画が発表されたが反対運動が起こり、1974年5月からプリンスホテルの本社として使用された後、1981年12月に139億円で東京都に売却され、1983年(昭和58年)に都立美術館の一つとして一般公開される。
2011年より改修工事のため長期休館を経てリニューアルし、2014年11月22日より一部再開。2018年3月21日、西洋庭園やレストランも含めて全面開館した。

Wikipedia

当時の西武グループ・堤の財力権力は半端じゃないですね。昭和の黒幕の一人だとおもいます。

個人的には徳川霊廟つぶして作った1964東京オリンピックの遺物、プリンスホテルのだだっ広い駐車場どうするのかなというのが気になるところ。もうそんな力が無くなっているのかもしれません。

となりには国立科学博物館付属自然教育園があります。

都立庭園美術館が管理された現代的な場所であるのなら、自然教育園は管理しない管理方式(でも管理はされている)の自然があふれる場所です。

自然そのままのようなところは都内では少なくて

:皇居の森は昭和天皇の意向で草木は管理しないが、一般人は入れない。
:明治神宮は管理しないのですが、場所柄草木に名前や標識が付いているわけではない。

こちらは草木に標識がつけられ、自然に近い形で展示されているという、生きた図鑑ともいえるのではないでしょうか。訪れる動物も多く記録されています。

池をバックに記念撮影したのですが池がみえていませんでした。
物語の松 江戸時代からあるそうです。瓢箪池とあわせてここが大名庭園だったことを表しているんだとか。
瓢箪池
菖蒲がある池
今日のウンチマン!といってポーズをとるのが流行りのようです。
森の小径的な・・・不思議とこういうところを歩くと気分がスーッと良くなるんですよね。
こちらは瓢箪池ではないほうの池。

室町時代は白金長者、江戸時代は親藩の松平家、明治は火薬庫、大正昭和は一部は宮家になり、他は御料地であったが荒廃が進み、戦後は自然教育園になったようです。

管理された緑を楽しみたければ、庭園美術館。
自然をたのしみたければ、自然教育園。

びっくりしたのが国立科学博物館付属自然教育園は、国立科学博物館と合わせて年会費1500円で入り放題。スゴイ・・・・

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