【豊島区】徳川ビレッジ近辺
今回は200回目の地図ブログ更新となります。
100回目は皇居東御苑(江戸城)でした。
記念すべき200回目となる今回は目白にある徳川ビレッジからお送りします。
徳川つながり。
入口の入居者の指名が書かれている案内板に撮影禁止と書いてあったので徳川ビレッジ内部の撮影はしていませんが、グーグルマップでもみれます。
法的には建物の外から撮影するのは問題ないのだとおもいますが、個人的信条でやめておきました。
尾張徳川家の徳川義親氏が昭和7年にそれまで住んでいた南麻布(現、フランス大使館)から煙突が見えることを嫌った夫人の為にこの地に移り住んだとの事です。
徳川慶喜が巣鴨に住んでいて、線路(山手線)が通り始めたので嫌がって引っ越したという逸話をおもいだしました。
そんな尾張徳川家の徳川ビレッジから東京時層地図。
2023年の地図
今回、徳川ビレッジ内の写真はありません。
近辺を歩いた感じ、行き止まりの道も多く、知る人ぞ知るといった場所です。
ほど近くに目白庭園という庭園があったのでのぞいてみました。
入園料は無料の豊島区立の庭園で、もともとは大野家さんという大地主の土地だったとか。
1990年に回遊式の日本庭園として開園。
当時の地図をみると団地跡のようにみえます。
周辺の方々の人気スポットになっていてお昼休み時にはお弁当をもった方々が集まるとか。
明治初期
明治9~19年頃。
周辺は雑木林と茶畑。
茶畑は明治以降の旧士族の食い扶持として行われたものであるとこの地図を通して学びました。
目白通りはこの当時もあるようです。
明治後期
〇 現、徳川ビレッジの場所に戸田邸が現れます。
戸田家は信州松本藩の藩主の松平家で、明治維新後に松平性を返上して戸田性に復帰となった戸田子爵家です。この時期だと戸田康泰、康保の時代か。
江戸時代の大名は徳川家から松平という名前をもらってそれを名乗っていたのはこの地図巡りを通して学んだことでした。
〇 同文書院 中国の上海に本部をおく私立大学で、同敷地に旧制目白中学が併設。近衛篤麿公爵邸に建てられたとのこと。
地図からは見切れていますが、たしかに近衛邸はこの時期の南側にありました。校長をつとめた学習院も目と鼻の先です。
大正関東大震災前
〇 北側に武蔵野鉄道という線路ができます。
武蔵野鉄道は1912年創業。
昭和に入ってから西武の堤康次郎が経営不振の武蔵野鉄道を買い取って現在の西武鉄道に続いているのだとか。
堤康次郎は戦後、小田急グループ&東急グループと箱根の開発争いを繰り広げることになるのでその予兆ですね。登場人物全員ワルの戦い。面白い。
〇 関東大震災前ですが、すでに住宅が集まっていますので、住環境の良いかった場所だったのではないかと思います。
昭和初期戦前
〇 尾張徳川家19代当主 徳川義親さんが子爵・戸田康保さんから土地を購入して、同級生の渡辺仁さんに依頼して本宅を建築。昭和7年移住。
ホームページには親交のあったベルギー大使夫妻やヘレンケラーが訪れている様子がありました。
権力の座から追われても、露頭に迷わずハイソサエティとして生活できるのが日本の良い所かなと思います。もしどこかの国だったら一族根絶やしとか・・・いや、違うな。上流階級みんな血族だからじゃないでしょうか。
現実はひっ迫する財政整理、没落華族の財政立て直し、戦後は自身の財産没収で大変だったみたいです。能力があっても大変だ。
〇 徳川義親は多方面に精力的に活動していて、昭和7年徳川黎明会設立、昭和10年名古屋に徳川美術館建設。1976年に目白の自宅でなくなります。89歳。
戦後高度成長前夜
〇 徳川邸はベルギー大使館に。徳川邸はみえなくなってしまっていますが、現在の徳川黎明館あたりが徳川邸だったのではないかと推測。
戦前のベルギー大使夫妻との親交をみるに、関係は深かったのではないでしょうか。
諏訪根自子という戦前の有名なバイオリニストが留学にするにあたってベルギー大使と送迎会を開いている様子の写真もありました。
バブル期
〇 徳川ビレッジには大使館家族や大企業の家族がお住まいのようです。
一見すると外国のような雰囲気。家賃は4LDKで100万円とか。
場所のわりには安価と思いますが、隣近所の催し物は随時開催されており、新規入居者があった際にはパーティーが開かれるなど、敷居はとっても高そうです。審査も厳しそうですね。
〇 徳川ビレッジの南側に徳川ドーミトリーという女子学生寮がありましたが2023年春に閉館。訪れたときには更地になっていました。
〇 目白庭園は出来上がっていませんね。1990年開園ということなので地図ももうちょっと前のものでしょう。
今回は記念すべき200回目ということで100回に続いて徳川関連でまとめてみました。
周辺でいろいろな発見があって楽しかったです。