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【港区】南青山1丁目 「射撃場と蛇が池」

こんにちは 今回は青山霊園の東側、南青山一丁目からお送りします。

港区立赤坂中学校南の道路から なんの変哲もない直線の道路です。

中学校に沿った形の直線の道路ですね。よくある光景だと思います。

土地柄お金持ちの方が多そうなイメージがありますが、住宅等は普通の雰囲気です。

現在の地図をみてみましょう。

現在の地図

学校沿いの道路がすごく長いのが特徴的です。400mくらいありそうで、大きな道路とスムーズにつながっているわけでもないので、不自然といえば不自然ですね。

ここから東京時層地図を見てみます。

明治9~19年

明治9~19年

陸軍射的場があらわれました。

現在の六本木ミッドタウンは東京鎮台歩兵営があったので、その部隊の射撃練習場。

高台になっていて、その縁の部分がそのまま残って現在の道路になっているようです。

西側に蛇の池と書かれている部分があります。

蛇の池とはおどろおどろしいですね。

そこにいってみましょう。

蛇の池

到着しました。写真にするとこの辺りです。商業施設です。

蛇が池の真ん中あたり、商業施設になっています。


この場所は SHARE GREEN MINAMI AOYAMA というコーヒー屋さんがあったりレンタルオフィスがあったり花屋さんがあったりする場所。

SHARE GREEN MINAMI AOYAMA

2018年にできたようです。期間限定利用のようです。

もともと池ということで、普通の宅地の利用には向いていないのかもしれません。

SHARE GREEN MINAMI AOYAMA

蛇の池について国会図書館デジタルで調べてみました。

「へびのいけ」だとおもったら「じゃがいけ」と呼んでいたようです。地図上では蛇之池です。

その話によると

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明治の後半には池は埋められてしまったが、かつて「蛇が池」という池があった。

ある年末に一人の老人が池のふちに腰をおろして

「ああーこの世の中は嫌になった、この年齢になっても、一日中、お金を借りて回っても、50銭もできず、年越しもおぼつかない。いっそこの池に身を投げて死んでやろうかな」

と、池に飛び込もうとしたところ、やってきた片目と片足が不自由な人が、声をかけた

「これこれ、一度死んだら生きかえらない、それならこれをあげよう」

と懐より3円を出して老人に与えた(現在だと5万くらいですかね)

老人はおどろいて

「たった50銭さえできぬ世の中に、なぜこんな大金をくださるのか」

というと、その人は

「私は君の正直さをめでて、これをあげることにした。死ぬことをやめて、家に帰って年越しの準備をせよ」

老人は喜んで泣いて、その人の名前を聞いたところその人は

「俺はこの池の神だ」

と答えたので、老人は恐れかしこみ平伏している間に池の神は消えた。

正月になってその老人が青山の北町あたり(今の外苑前駅あたりだと思います)にいったときに、

その「蛇が池の神様」が、馬車に乗っているのをみて、老人は驚いて拝んだ。

すると馬の世話をする馬丁が馬車より降りて、なんで拝んでいるんだと問うたところ、老人は先日の出来事を馬丁につたえた。

馬丁は笑って

「その神様は、オレの旦那の、伊知地正治 様だ」

と答えた。


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うーん 面白い。

池にまつわる怖い神話かとおもいきや、落語のような話だったとは。

この逸話は本当かどうかわかりませんが、伊地知正治は実在します。

伊地知正治(1828~1886年)

伊地知正治

薩摩藩士で明治維新後は政府の要人、参議兼議長 

この時代は大久保、伊藤につぐ要人です。

頭脳明晰だけれど奇人の逸話が多いという人物。

高名像伝 : 近世遺勲 著者 子安信成 明13.5

この挿絵からも髪が長くて異様な様相というのが伝わってきます。蛇が池のエピソードからしても変わった人です。

山田顕義という名前が出てきました。今の東京大神宮の所に家を構えていた山田は長州藩士、司法大臣、國學院を設立。

伊地知はこの辺りに居を構えているんじゃないかと思って探してみましたが、日比谷高校あたりの土地を西郷従道と別けたとのこと。

その場所は明治9~19年の地図では高崎邸と書かれていました。

明治維新後は薩長が政府から要所を格安で払い下げて邸宅にしていたようです。

高崎正風 1836~1912年

薩摩藩士、枢密院議長。山田顕義と深くつながりがあり、初代國學院院長。

この時代 掘れば 薩長 薩長 また薩長です。

今度 SHAR green 南青山にいったら蛇が池のこの逸話を思い出したいと思います。

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