【文京区】後楽園ゆうえんちとその周辺
後楽園ゆうえんちではサブスクパスというものがあります。(2022年10月)
サブスクパスは大人6000円、幼児2000円ほどで来年3月まで乗り物乗り放題という期間限定イベント。
観客動員数が大幅に落ち込む冬を乗り切るために考え出されたシステムなのでしょう。
そしてサブスクパスを購入して、あこがれの後楽園ゆうえんちに行ってまいりました。(一回一回の遊具が高くて気軽に遊べなかった)
なお、最初のサブスクパスはスマホだったのですが、途中でパスカードに換えました。
特典がなくなったり(周辺のお店の飲食が安く買える)や、手数料(350円)がかかりますが、パスカードにすることでいちいちスマホを出さなくてすみますし、なにより顔写真付きなので思い出になるという話をきき、その通りだなとおもったので。
購入してからは毎週のように行っているので、地図ネタが尽きそうです。
つぎいくとしても小石川植物園に行ってから行きたい・・・
後楽園は江戸は水戸徳川家、明治から戦後までは砲兵工廠だったことは過去に調べました。今回は場所を変えて追記したいとおもいます。
現在の地図。観覧車から東京時層地図を見てみました。
後楽園は江戸城の外堀の外側に位置します。白山通りは五街道の一つ、中山道とつながります。京都から内陸を通るルートになります。
御三家の水戸徳川家があったことから、この地も江戸城の重要防衛ラインだったのでしょう。
明治初期
明治初期には砲兵工廠第一砲兵方面の工場が並んでいます。
地図の北側にはこの当時大名庭園らしきものがありますし、水源のようなものもあります。
1860年頃の地図をみると池のある場所は
御書院番 中川監物 (けんもつは役職名です)
東側は
寺社奉行 上野高崎藩
松平右京明輝亮輝聴(まつだいらてるとし)
松平輝聴の子、大河内輝声、さらにその子の大河内輝耕は貴族院議員で、東京大空襲翌日に議会で「人貴きか物貴きか」と発言したとWikipediaには書かれていました。
大河内輝耕の住所は東京市外代々幡町代々木中山谷二八四とありますから、いまでいう代々木3丁目の北側に住んでいたようです。
大名一家は維新後東京を追い出されたものとと勝手に考えていましたがそうでもなかったようです。
明治後期(明治35~42年あたり)
大阪砲兵工廠は当時の東洋最大の軍事工場で遺構が廃墟として残っているようです。写真を見る限りだと赤レンガで取り壊すには惜しい建物。渋い。
江戸時代の中川監物宅の西に講道館ができます。
ということでこの時期はその下富阪に移転した時期。周辺地域も明治初期とはガラッと変わりました。
この時代は路面電車がおもな交通手段だったことがわかります。車の登場はまだ先の話。
大正時代 関東大震災前
再び Wikipedia からの引用ですが
1936年昭和11年の官報には陸軍造兵廠東京工廠が十条に設置とありますので、大震災後に改称した後、移動していったようです。
レンガ造りで耐震性は無さそうですし、小石川後楽園の建築物も地震で軒並み倒壊しているので、修繕費用に加えて、地盤的にも軟弱な地盤だとおもいます。
昭和初期戦前
軍事施設なので白抜きされていますが、昭和11年の航空写真ではほとんど建物がないように見えたので、各工場は方々に移転済みだったのかもしれません。
南北に講道館があるのが特徴的ですね。講道館=加納治五郎は政府ともつながりが深く、自由が効いたのではないでしょうか。(昭和13年没)
戦後 1950年代高度成長期前夜
戦後の変貌ぶりがスゴイところ。
1937年 後楽園球場開場(なんと戦前に開場していました。)
1945年 終戦
1949年 後楽園競輪場開場
1955年 後楽園ゆうえんち開園。
1958年 後楽園競輪場 入場者一開催27万人突破
1964年 東京オリンピック開催
1967年 美濃部知事が都営ギャンブルを禁止
1972年 競輪廃止
激変ですね。東京ドームって競輪場跡につくられたんですね。
バブル期 1990年前後
1987年 後楽園球場閉場
後楽園閉場のニュースは覚えています。もっと子供の頃だとおもったけれど年を数えてみると小6くらいで結構大きくなっていますね。
1988年 東京ドーム開場
世代的にかもしれませんが、東京ドームっていうと、来るべき未来への夢や希望を感じていました。
東京ドームをみると昔はそういうものがあったなと思い出します。
東京タワー、東京ドーム、池袋サンシャインは個人的な東京3大建造物です。
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