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【江東区】中の島公園と海の日
娘の幼稚園のパパ友にハゼ釣り誘われたのをキッカケに釣りを始めました。
小学校5,6年の時は土日は毎日近所の川に魚釣りに行ったものです。中学校のときもちょこちょこ行っていたかもしれません。高校生になると行かなくなりました。
それから上京し東京生活30年近く。
海近辺の釣りというのは船を出したりとにかくお金がかかるイメージでしたが、お金のかからない釣りもあるのです。
道具はアマゾンの格安リール、エサはシジミ。情報はYouTube先生。
隅田川は東京湾に面している汽水域の為にコイやフナが居ないというのがとても衝撃的でした。ウキで釣ったりしないのです。これは驚き。
ということで、佃島や越中島近辺を釣り歩いているのですが、いまだに一匹も釣れません。
しかし大きい魚を釣り上げている人も見かけたし釣り人もいるということは釣れるということなのでしょう。
その過程で、佃島から越中島に渡る橋に小さな島があるのを発見しました。
名前は 中の島公園。
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近くには大きな石碑があり、明治天皇聖跡と彫られていました。
さらに明治丸という船があり、東京海洋大学がありました。人気のタレント、さかなくんが入りたかった大学にして今はまわりまわって名誉博士、客員教授をしていたり、魚系YouTuberの素潜り漁師まさるさんの出身校でもあります。
ということで今回は中の島公園から東京時層地図をみてみたいとおもいます。
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中の島公園
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中の島は明治36年、1903年に越中島と佃島を結ぶ相生橋が架けられた時に中継地点となった島です。当時、中の島から佃島側に相生橋、越中島側に相生小橋の二つの木橋が架けられていましたが、大正12年 1923年 関東大震災で焼失 昭和2年 1927年に相生橋の再建後、中の島は隅田川唯一の水上公園として整備、当時は非常に賑わいをみせ、木橋の頃から月見の名所といわれた。 その後、墨田川の水質汚濁により訪れる人が居なくなり、昭和48年に閉鎖。その後水質改善し昭和55年、墨田川の水を入れ潮の満ち干により水位が変わる感潮池や、島の南北をつなぐ渡桟橋を設置し、釣りや夕涼みのできる見晴らしのよい公園として再び開園。この度、中の島公園は相生橋の再度の架け替えにともない、ハギ、ススキを植栽するなど新しく整備されました。中の島公園と商船大学・明治丸は昭和63年の区民投票により江東八景の一つに選ばれています。 平成12年4月
案内板によると、100年前は人気の公園だったようです。100年経ったいまでも眺めは素晴らしい。
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明治丸
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明治丸:イギリス製1875年就航 灯台見回り業務や小笠原諸島などにも行き、他には御召し船として明治天皇の北海道東北巡幸に使用され、無事に横浜に帰港した7月20日が「海の日」に設定。
なんてこった。海の日の起源がここにある。
海開きの日だから海の日だとおもっていました。
近くに
明治天皇聖蹟
があったのはそういった理由なんですね。
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明治丸から東にちょっと歩くと
東京海洋大学
があります。その塀にはこんな記述が。
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東京商船大学旧天体観測所(第一観測台)1903年明治36年建築
どうやら東京海洋大学は歴史があるっぽい・・・。
明治11年、神田錦町に三菱商業学校が設立された。校長の森下を始め理想に燃える教官のほとんどが福沢諭吉の門下生だった。予備科3年、本科2年。英語、漢学、日本作文、算術、簿記などのほか、英語による経済学、歴史、地理、数学の授業。さらに1年間のインターンシップもあった。
学生数はピーク時で百数十名。いわば明治時代のビジネススクールである。彌太郎は慶応義塾に学んでいた長男の久彌を一期生として入学させた。
「…三菱(商業学校)は…義塾の分校のようなものである。その分校には政府から(海運助成策などによる三菱への間接的)補助があるのに、本校たる慶応義塾には何もない…」と慶応義塾の資金繰りに苦しむ福沢が政府に貸与を申し出た際に三菱商業学校を引き合いに出している。そのくらい彌太郎は資金を注ぎ込んだ。
商業学校は優秀な学生を集め、三菱の幹部候補生を育てた。ところが、教員である馬場辰猪(ばばたつい)や大石正巳(おおいしまさみ)らが自由党の結成に参加、商業学校の校舎を使って、夜間教室・明治義塾を開設した。土佐の熱血漢たちの、自由民権思想普及の場として大いに人気を集めたが、当然薩長閥の政府から睨まれるところとなってしまった。
彌太郎は嫌気がさし、三菱商業学校に対する情熱を失った。世の中はいわゆる松方デフレ(注1)であり、共同運輸との壮絶なビジネス戦争で三菱の資金繰りが逼迫(ひっぱく)するようにもなった。かくして三菱商業学校は、明治17年廃校ということになる。彌太郎の挫折。創立以来わずか6年だった。
福沢諭吉と岩崎弥太郎の尽力があったけれど、資金繰りと政府に睨まれて廃校、その後に官立の東京商船学校になるわけですね。
歴史があるなぁ。
では、東京時層地図へ。
明治初期
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明治後期
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中の島から佃島にのびているのが相生橋、越中島にのびているのが相生小橋。
越中島は糧秣廠(りょうまつしょう)
東側の商船学校には第一観測台、第二観測台がある!!!これはスゴイ。
明治後期の建造物が今でも同じ場所にあるというのはなかなか無い体験ですよ。
けっこう興奮しています。
大正時代 関東大震災前
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この後、関東大震災がおきて相生橋は焼失。橋が焼失ってスゴイですよね。地図から推察するに佃島あたりは住宅密集地、火の海だったのでしょう。
これより上流の浜町あたりの橋は鉄橋で、当時の警官が起点を聞かせて、サーベルを振り回して避難住民に家財道具を捨てさせて、類焼を免れたという逸話もあったなぁ・・・
2023年は関東大震災後100年。横網町公園の被服廠跡にも行かなければと思っています。
昭和初期戦前
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糧秣廠は戦後まで続くということなので(空襲で焼けた火の子が飛び散って大学の木が燃えた)やはり地図は改描されているようです。
中の島の案内板にあるように昭和2年に水上公園へと整備。今のような南北にすこし伸びた形に。
1955年頃 高度成長期前夜
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隅田川の水質が極端に悪くなっているころでしょう。石川島は工場ですし。
台東区のホームページによると「1964年の東京オリンピックを機会に様々な浄化対策を実施して、大幅に水質改善、平成になってから魚が見られるようになった。」
ということなので、それから60年あまり、水質改善したのは最近なんですね。
改善したといっても、周辺に数年根付いている魚はケミカル臭がすごくて食べられないそうです。大物つれてもリリースです。
昭和48年1973年に中の島公園は閉鎖。
昭和46年に越中島公園が開園するので、その兼ね合いもあるのかなと思います。
バブル期
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昭和55年 1980年 中の島公園は再び開園。
風通しも良くて自然も感じることができて、お気に入りの場所です。
釣りで訪れるたびにいい場所だなぁ・・・と。
まだ一匹も釣れていませんが別に釣れなくてもかまいません。
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