【千代田区】150回記念 150年前にタイムスリップ 皇居東御苑
今回で記念すべき150回目となりました。
場所はやはりここ、皇居東御苑です。
城好き少年だった僕にはたまらない場所。立て続けに4回訪問。石垣の質量感がたまらない。まだまだ行きたい。今週はいけるかな?今週は最後の後楽園遊園地サブスクパス期間なのでいけないか。
とくにここは石垣がスゴイ・・・オカルティックな言い方だと、天然の結晶構造の持つ圧倒的な波動をビンビンに感じるとでも言いましょうか。
または石切り場から切り出してここまで運んで、組み上げてという工程で多くの人の念が入っているのを感じるからでしょうか。
ともあれ・・・
今回は
旧江戸城写真帖
という明治初期の江戸城の写真と現在を見比べてみたいとおもいます。
150年の時を超えていま蘇るっっ(実際には蘇ったのは東御苑公開時1965年です)
地図はおなじみ
大江戸今昔めぐり 1855年くらいの地図
東京時層地図 明治9年~19年頃 1875~1885年くらいの地図
明治7年の廃城令が効いているようで、櫓や多聞などもほとんど取り壊しとなってしまっている様子が見てとれます。
国の体制が変わっても前時代の遺産は残すというのが後々考えると良策なんだけど、難しいんでしょうね。
来るか来ないかわからない未来の事考えたって仕方ないってのも健全な考え方だし。ましてや150年後に慌てて観光立国目指してる事になるなんて思いもしない。
さて本題にもどりまして
今回は大江戸今昔巡りのアプリの画像に番号を振ってみました。
1~10の番号と*印と英数字のA です。
*印は11の番号がなかったことと、英数字Aに関しては場所が多少ズレているところからの撮影というこちら側の問題です。
まずは江戸時代の地図と照らし合わせながら説明していきたいとおもいます。
1・下乗御門を東から見た図
2・百人番所を北側から見た図
3・中ノ門を北側から見た図
A・新門付近の石垣の上からの眺め 現在立ち入り禁止なので場所を少し移動して撮影
4・朱雀門近辺
5・右手奥に数寄屋櫓が見えている図(本丸大広間付近)
6・大広敷あたりから天守台を見ている図。
7・天守台西から北にある乾櫓を映している図
8・天守台北から岩岐多聞櫓を見ている図
9・上梅林門から下った場所で下梅林門と番屋を見ている図
10・汐見太鼓櫓跡と上梅林門を映している図
*印・白鳥堀から汐見坂を見ている図
では早速いってみましょう!
1・下乗御門を東から見た図
木々が茂っているために最初は気が付きませんでしたが、枡形門の形状になっています。奥にある番所は移築されたもの。石垣の前にあった内堀は埋め立てられています。
2・百人番所を北側からみた図
往時は東側に百人多聞、百人櫓があったことが地図から見てとれます。
伊賀甲賀の武士達が常時100人詰めていたといわれる100人番所。忍者の末裔の就職口なんですね。
原宿は旧隠田村といって伊賀の人に与えられた土地ですし、明治神宮外苑付近には甲賀の人が住んでいたことが甲賀稲荷神社が千駄ケ谷の鳩の森神社に移転したという由来で書かれていました。
東京は忍者の子孫は多そうです。
東京に外人さんがやってきて忍者探しするのはあながち的外れではないですね。
3・中ノ門を見た図
大きな渡櫓と多聞が目を引きます。薩長の士族が格好をつけて写ってますね。気持ちはわかります。
ちょんまげ刀の士族もいます。いわゆる散髪脱刀令は明治4年からなので、この写真がつくられたのは明治4年ですから、絶妙な時期に撮られたのだと思われます。
圧倒的質感。一つの門なのに、地方都市の天守台なんじゃないかと思うほど。さすがは日本一の名城。政権の中枢。
門付近に人が居るので、大きさがわかります。
A・新門付近の石垣の上からの眺め 現在立ち入り禁止なので場所を少し移動して撮影
この場所から右を向くとこの石垣があります。
4・中朱雀門近辺
5 本丸大広間近辺。右手奥に数寄屋櫓が見えている図
江戸末期の1863年に本丸は焼失しています。
1860年に大老井伊直弼が暗殺されたり、1863年に薩英戦争がおこったりと幕府がグラグラに揺れて1867年の大政奉還秒読みの非常に不安定な時期です。
1868年明治元年には二の丸も焼失。
沈むことをわかっている船にいつまでのっているかというところですね。外様大名なら乗り換えるのは簡単、譜代中の譜代だとなかなかそういうわけにもいかないだろうなぁ。
この辺りも以前取り上げた、最後の大老酒井忠績もいたのでしょう。(1860年老中首座)
奥の黒い影あたりが数寄屋櫓跡近辺 この辺り、本丸の大広間付近、江戸幕府260年間に数々の出来事があったのでしょう。
なんとなく、頭を垂れて跪いて平伏し
「わがきみ、いずこにあらん」
と言いたくなるような・・・
6 大広敷あたりから北側にある天守台を見ている図。
7・天守台西から北にある乾櫓を見ている図
8・天守台北から岩岐多聞櫓を見ている図
ちょんまげと羽織袴と帯刀とコウモリ傘の組み合わせ。日傘として使っていたようです。たしかにこの時期の写真って日差しを遮るような木々が全然ないから、あれば便利だったのでしょう。
オジサンになっても写りたがり。わかりますその気持ち。左のほうには扇子を振っている人もいるから面白い。しかし、刀を二本差してるし、目の前にしたらめったな事は言えないですよ。想像すると緊張感ありますね。揉めたら一瞬にして刃傷沙汰に発展し、怪我だけじゃすまない。礼節がなにより大切だったのも頷けます。人と人との距離間も大切かと。
後ろを振り返ると・・・
9・上梅林門から下った場所で下梅林門と番屋を見ている図
奥に下梅林門、真ん中が番所、左が上梅林門の石垣になります。
10・汐見太鼓櫓跡と上梅林門を映している図
*印・白鳥堀から汐見坂を見ている図
今年に入って存在を知って、ドはまりした皇居東御苑ですが、毎週行っているので娘は呆れ顔
「石しかないじゃない」
「テンションはマイナス」
「ナマ(私の事)が、この場所を好きすぎて困っている」
もはやスマホのマインクラフトで釣らないとついてこなくなりました。
日本の歴史的遺産の中でマインクラフトでお部屋作りなんて呆れた話ですが、私もスマホみながら、
「うぉーここが大広間か、ここが大奥か、この石垣には大きな渡櫓がー・・」
と、スマホみながら見えない現実を想像してテンション上がっているわけだからドッコイドッコイかもしれません。
今回で150回目。記念すべき回にこれ以上ない素晴らしい場所を取り上げられたことは幸せです。
週一更新のペースでいけば200回は来年の春夏でしょうか。
まだまだ行っていないところはたくさんあります。むしろ行っていないと思うところが増えるばかり。
今回はこれにて終わりたいと思います。
ありがとうございました。
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