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【台東区】浅草橋

浅草橋に行ってまいりました。

このあたり20歳くらいのころに夜勤の交通整理のバイトで何回か来たことがあります。

休憩時間に夜の公園で一人で食べる食事は心の荒むものですが、この時食べたカップラーメンとオニギリはめちゃくちゃ旨かったです。ハイキングでのお昼のカップラーメンが旨いのと一緒なのかもしれません。

調べてみると休憩していた公園というのは柳北公園でした。

夜勤の交通整理のバイトは3か月持ちませんでした。当時は若者ばかり多かった印象です。あれから30年近く経ちました。思い出ということであればいい経験だったと思います。短い期間だったから覚えているのかも。


では早速東京時層地図で

現代の地図

から見ていきます。

今回歩いたのは

蔵前橋駅→商店街を歩き→銀杏岡八幡→鳥越神社→蔵前橋にある徳川家光由来の松。

そして9月16日にオープンする昨今人気のスポーツ、芸能人も好んでやっているというブラジリアン柔術道場にオープン前にちょっとだけお邪魔。

浅草橋駅の南側に浅草橋があります。

浅草橋の南には枡形門があり、浅草御門という名称だったようです。江戸三十六見附の一つ。次回またおりをみて再訪問したいとおもいます。

神田川の終点が浅草橋で隅田川に流れているというのは初めて知りました。


江戸末期1855年頃の地図

大江戸今昔めぐり 1855年頃 浅草御門
清水三次郎 編・画『徳川覇府江戸三十六城門画帖』,森山章助,明29.11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/846323 (参照 2023-09-13)

地図で照らし合わせるとこの画は正面に大番所が見えるので南側からの図ですね。

影が西に延びているので朝のイメージ。

浅草橋にもこのように立派な枡形門がありました。
残っていたらこれだけで観光名所ですね。




東京時層地図 明治初期


人口密集地帯です。まさに江戸。

浅草橋というと、イメージでは問屋街。
ということは江戸時代は周辺一帯が町人街かとおもいきや、アプリの大江戸今昔巡りによると1855年あたりは現在の浅草橋駅付近にも大名屋敷が数軒ありました。

浅草橋の北東に
三河岡崎藩5万石 本多中務大輔忠民
信濃上田藩5万3千石 松平伊賀守忠固

浅草橋の北西に
出羽久保田藩20万石 佐竹右京大夫義睦
備中鴨方藩2万5千石 池田内匠頭政秋詮
肥前平戸藩6万1700石 松浦壱岐守曜

と書かれていました。

明治になってからも地図上で確認できたのが、松浦邸と俵屋町警察署となった旧池田邸。

大名屋敷も点在していた場所であるということがわかりました。

考えてみれば枡形門という防衛ラインがあるのだから、大名なり旗本衆なりがいないと防御にならないですよね。

地図ももっと細かく掘っていけば色々なものが隠れていそうです。

明治後期

路面電車が通りはじめます。

松浦邸があります。

松浦邸の当主はこの時代は松浦詮(まつうらあきら)明治天皇の又従兄弟で優遇されたようです。子供は13人いて、旧大名家や新政府の有力者の婿養子、夫人になったりと引く手あまたの様子。
社会の上のほうではみんな繋がっているという縮図だと思います。

鳥越神社が住宅街に埋もれているのも注目点かと。

鳥越神社が意外にも小さいようにみえます。いまでも小さいんですよね。
東京一大きいという神輿があるわりには神社の規模が小さい。深川八幡と並び称されるような御祭りがあるようなのですが。

Wikipediaによると江戸時代以前には広大な土地を所有していたけれど、東側の隅田川沿いに米蔵を作る為領地が没収されてしまったんだとか。

なるほど、それで米蔵の前だから蔵前か。
ちょっと東側には巨大米蔵跡があるんですよね。これも訪問しなければ。

現在鳥越神社の前を通る蔵前橋通りは昔からある道じゃないんですね
。となると、関東大震災以降の都市計画で作られたということか。

大正時代

関東大震災直前の地図。水路も埋め立て道路にし、道路も狭くて住宅が密集しているようにみえますので、みるからに災害時には弱そうです。

関東大震災後に銀座、浅草の人口が郊外に流入したとあるのですが、よくみたらここは浅草区でした。このあたりの人達も移動したのかもしれません。

昭和初期戦前

関東大震災の復興工事で蔵前通りと蔵前橋が出来たように見えます。
総武線も両国から伸びました。

松浦邸は学校になりましたが庭園も池は残っていますね。現在は公園に蓬莱園という名前の石碑が残るのみ。多くの大名庭園は時代の流れとともに消えていってしまいますね。

岩崎邸だった清澄公園もそうですが、大名庭園が後世生き残るには、当時の権力者たちの庇護が必要のようです。

松浦邸の松浦さんは長崎平戸の名士で現在は茶道の家元
茶道というのは武家のものなのだなとここで改めて学びました。

戦後1955年頃

戦後でも地図上では街並みが戦前とかわらないようにみえます。
旧松浦邸の浅草橋5丁目あたりは焼け残ったようです。
空襲を免れた地域ともともと人口密集地域だから復旧も早かったのかなと思ったり。

ここまで来て気が付きましたが

旧松浦邸の北側にある天主教会とはなんだろう。

よくみると明治初期の地図からあるんですね。江戸時代の地図にはない。
ということは明治初期にできたことになる。

調べてみると 
天主教会で出てくるのがカトリック教会 
松浦氏の地元長崎といえば大浦天主堂に代表されるようにカトリック教会との関係が密接な場所。
なるほど、明治維新前後に松浦氏の力によってこの地に呼び寄せられたものだったというわけか。これは発見。
現在でも浅草カトリック教会があります。

バブル期

この年代のころに警備員のバイトで来ていたんだな。
夜中に工事をドカドカやっているものだから住民の方のクレームがけっこうあったことを覚えています。
あらためてバイト中の休憩場所だった柳北公園に行ってみたいと思いました。

続いて

今回訪問した場所の写真です


浅草橋西口前のビーズ屋さん
石屋さん
銀杏岡八幡
加賀美久米森稲荷神社 鳥越神社の末社
鳥越神社
割合にこじんまりとした神社です。ですが鳥越祭りはかなりのド迫力だそうです。とにかくものすごい。と聞いています。
神社の境内にあった関東大震災後の土地区画整理測量基本標
首尾の松 説がいろいろとあるのですが、寛永年間に墨田川が氾濫し、徳川家光が調査を命じ、皆がおじけづくなか、阿部豊後守忠秋が馬もろとも川に飛び込み、対岸にたどり着き、その傍らにあった松を首尾の松と呼んだ。ということにするのが、対岸の旧安田庭園にある駒止石と合わせて綺麗な物語になるかも。他の説である吉原遊びの「首尾」を語り合った松はまあそれはそれでいいですけど。


9月16日オープン予定のブラジリアン柔術道場でオープン前の記念撮影。
東京都台東区浅草橋3丁目26−3 アコルデ浅草橋 1F

画角的に我々親子の写真になりました。そろそろ親子で写った写真をあげるのは止め時かなと

道場主の山田先生は先祖代々、氏神様は鳥越神社、親戚も周辺に住んでいるとか。
ご先祖も関東大震災や東京大空襲を乗り越えてこの地で暮らし続けていたそうで、関東大震災から丁度100年後の9月に道場をオープンという、なんとも胸が熱くなるストーリーがあります。
歴史ある街、墨田川とスカイツリー、最高のロケーション。

道場の発展をお祈りして今回の回を終わりたいとおもいます。



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