見出し画像

【港区】白金台

目黒区民プールからの帰り。
お昼を回ってお腹も減ったのでどこかで食事をしようと自転車でふらついて、白金台のジョナサンにたどり着きました。
最近の娘のお気に入りはサイゼリヤからジョナサンへ。

ジョナサンのフライドチキンがお気に入りのようです。パスタとピザはおいしいですね。
サイゼリヤは複数を頼むことになるのですが、ジョナサンは一品で充分なので、値段的にはそんなに変わらないかなと思います。

白金台というと都内有数のオシャレスポットであり、シロガネーゼの由来でもあります。ドン・キホーテも白金っぽく白っぽく塗られていて、大衆店らしさを消しています。

道路を一本入ると、外観からでも見どころある場所があるのですが、この時は暑かったし、子供はスマホゲームを独占し充電はなくなっているし、周辺回って写真撮るどころじゃなかったので、また次回、機会をみていけたらないいなとおもっています。

周辺地域見どころがありすぎて、範囲を広げすぎてしまいました・・・

自然教育園は過去に東京時層地図で調べていました。


幹線道路沿いでオシャレスポットという感じはしないですけれど
どこにでもあるジョナサンです。


現代の地図

○ 地図を広げ過ぎました。北は北里大学、南は高輪台の駅まで範囲を広げてしまっています。いわゆるオシャレスポットといわれているのは、外苑西通りの418号線沿いでしょうか。

○ 聖心女子学院には一度入った記憶があります。
友人の結婚式ですね。お相手がこの学校出身でした。

昔の写真を見てみようかなと思いましたが、CDROMに焼いたので、今やCDROMを再生する機械もないんですよね。
画像はちょっと探してみます。

結婚式自体15年くらいまえの話だとおもうのですが、自分でハードディスクに保存したり、CDロムに焼いたりするのは、あとから調べるときに手間になるので、もはやクラウドにしたほうがいいなという感想をもちました。
クラウドだったらこういうときにポッと出せる。

○ 旧服部金太郎邸は、セイコー創業者、銀座の時計台が有名です。

○ 東京大学医科学研究所附属病院もあります。

○ 東側には八芳園という結婚式 重厚な門構えが印象的な場所。

ちなみに私の実家の近所に「はっぽうえん」という焼き肉屋があって、カルビがとても美味しかった記憶があります。ですから「はっぽうえん」という名前は焼き肉屋を連想させるんですよ。

○ 西側が自然教育園です。


1855年頃 大江戸今昔巡りより

やはり範囲を広げ過ぎた感が・・・
様々な大名の土地が入り組んだ場所といえるでしょう。

目黒通りはこの時代には白金大通といっていたようです。
増上寺子院や瑞聖寺の門前町として栄えたのかな。

山手七福神という名称がみられます。

山手七福神巡りは今でもあるみたいですね!
各寺院で七福神のダルマが売っていて、各500円 コンプリートで3500円。楽しそうだなぁ 今度やってみよう。


明治9~19年 1876~1886年

○ 南白金村という表記。じゃあ北は?と思ったら発見できませんでした。

○ 雷神社という表記もあります。この雷神社、今は雷神山児童遊園として雷神誕生の碑とともにあるようです。

○ 蜀江台というのも見えます。「しょっこう」という名称どこかで聞き覚えがあったとおもったら北新宿に蜀江坂があったことを思い出しました。蜀江錦はその名の通り、蜀の時代につくられたようです。きらびやかなものを指す言葉だったのでしょうね。

○ 南側の茶畑の場所は江戸時代の地図をみると増上寺となっているのが驚き。いまあるお寺も増上寺の子院のようです。地形的にも高台に建っていることから防衛拠点のようにもみえます。

自然教育園が讃岐の親藩だったことから、当たらずとも遠からずだとおもいます。

○地形的に起伏があって複雑な場所ですね。


明治39~42年 1906年~1909年

北から目につく表記をみると

○養生園 北里柴三郎が福沢諭吉の援助をうけて、明治26年 1893年にわが国初の結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」を開設。北里柴三郎は新札1000円の顔です 現在の北里大学の場所にあたります。
明治大正期に死因の10%が結核で、昭和20年までは死亡率第一位の病気。


○聖心女子学院 明治41年 1908年設立 カトリック系 

1923年関東大震災で倒壊



○蜀江台に蜀江坂

○伝染病研究所 明治39年 1899年 このあたりでいろいろ変遷があるようです。
最初は北里が私立で伝染病研究所をたて、そののち国立として内務省管轄になり、文科省管轄として東京大学伝染病研究所になるにあたって、北里研究所を設立したとか。

○渋沢邸 渋沢というと渋沢栄一かとおもいきやさにあらず、渋沢喜作という従兄弟のようです。だいぶ渋沢栄一に助けられていた様子。


○見切れていますが明治学院 明治19年 1886年 設立 
ヘボン式ローマ字で有名なジェームス・カーティス・ヘボンが設立。
ここで ヘボン について
ヘボンは綴りで Hepburn と書いてヘップバーンとかヘプバーンとか読むのだけれど、ご本人が「ヘボンです」といっていたので、いまでもヘボンなんだとか。

オードリー・ヘプバーンがオードリー・ヘボンだったらそんなに人気がでないような気がする。そんなことないか。


○増上寺の子院(明治初期の地図では茶とかかれていましたが、しっかりありました)

関東大震災直前 大正5~10年 1916年~1921年

○北里研究所ができます。

○渋沢邸が久原邸に

久原房之助 1869~1965年 山口県萩市出身 東京商業大学、慶應義塾卒業。


初めて聞く名前ですが、日立製作所、日産自動車の基になっている久原鉱業所、日立鉱山や久原財閥のドン。
なるほど、日立って茨城で聞いたことある地名だとおもっていたけど、鉱山があったんだ。

昭和に入ると政界に進出
逓信大臣、立憲政友会幹事長、226事件では資金提供し関与者をかくまったかどで訴追、無罪。うーむ、背景の闇が深すぎてよくわからない。

その後は立憲政友会総裁。
戦後は第二次戦犯指名の11人の一人として巣鴨プリズンに収監、不起訴。

第一次戦犯指名が東条内閣閣僚
第二次戦犯指名が大臣や軍部の上層部。

久原は大臣を昭和4年にちょっとやっただけですから、それで第二次戦犯指名ということは、もう相当なもの。
昭和のドン、笹川良一や児玉誉士夫は第三次指名ですからね。

戦後は慶應義塾評議会最高顧問、日中日ソ国交回復国民会議会長で毛沢東、周恩来らと会見。

頭良くて賢い人がオイシイところを全部持っていくっていう典型を見た気がしました。

つかまっても罪にはなっていない所、まさに明治以降の日本の特権階級。

子供は13人。孫にはブリジストンの会長だったり、東急の会長だったり。

玄孫は芥川賞作家の朝吹真理子さん
作品の「きことわ」を読んだことあるので覚えていました。こんなところでつながりが💦


昭和初期戦前 昭和3~10年 1928年~1935年

久原さんでお腹いっぱいになりましたので、関東大震災後のこのあたりは、もともと開いていた土地にさらに住居が増えたということでまとめさせていただきたいと思います。

戦災焼失地域でみても、なぜか白金のこの辺りは焼失を免れています。
南側の大崎は焼けています。

高度成長前夜 昭和30~35年 1950~1955年

○ 養生園がすべて北里研究所に。

○ 服部邸が出来上がります。いえ、すでにできていました。

セイコー創業者の服部金太郎が、帝国ホテル新館を手掛けた高橋貞太郎設計で昭和8年 1933年に建築。

戦後、GHQに接収、キーナン首席検事ら10人が住んでいて東京裁判の翻訳文などを作成していた場所。
今はシンガポールの企業に売却されているようです。
昭和建築の洋館、閉ざされた門の奥にあってグーグルマップでしかみれないのは実に惜しい。

バブル期 昭和59年~平成2年 1984年~1990年

○ 八芳園ができます。昭和25年 1950年 公職追放中だった久原に長谷敏司が声をかけて久原邸を利用して八芳園をオープン、数年後に長谷が取得。
久原は怖い人物だとおもうのですが、そこに声をかける長谷もかなりのツワモノだとおもいます。久原は当時80くらいだからさすがに老いているでしょうけど。

四方八方みても美しいから八芳園なんだとか。
あの重厚な門構えは外からでも写真撮ってアップしたいです。

○ 伝染病研究所は公衆衛生院に 昭和13年~平成14年 1938~2002年 関東大震災後に米国のロックフェラー財団からの声掛けと経済援助でできた場所のようです。
そんな場所をアメリカが空爆するわけがない。
白金台が戦災焼失していないのも、
戦後使えそうなお屋敷、そして施設があったからということに結論づけられるとおもいます。
旧建物は2018年に港区立郷土歴史館としてオープン。
こちらは港区が国から買い取っているようです。
服部邸より買い取るならこちらか・・・ぜひ行ってみたい場所です
建築は内田祥三。
東大関係の建築の他に、西新宿の損保ジャパンビル。

○ 意外なところでは外苑西通りはわりと最近にできたようです。東京オリンピックにむけて1963年着工。

やっぱり範囲を広げすぎたなぁ
八芳園、公衆衛生院、山の手七福神、服部ハウス、北里研究所、で5つの記事ができますよ。

またそれは別の機会に・・・

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?