【台東区】駒形橋
前回の続きです。浅草から隅田川を下りながら釣り歩き、要所要所で東京時層地図を開いてみました。釣りは釣法も色々と迷走していますが、川沿いをあるくだけでも気持ちが良いです。
駒形橋と東京スカイツリーと月。カメラ撮影されている方もちらほらいらっしゃいました。今回は駒形橋を東京時層地図で見ていきたいとおもいます。
2023年の地図
〇 駒形橋のたもとに浅草観音戒殺碑というのがあります。
なにやらおどろおどろしい名前。
浅草は江戸時代の明暦の大火、大正昭和の関東大震災、東京大空襲で多くの人が亡くなっているからその碑なのかなとおもいきや、調べてみると
浅草観音様が現れた聖地なので魚は獲ってはいけないという石碑なんだとか。
えー・・・釣り歩いてましたけど・・・
石碑が出来たのが元禄六年(1693)
時の将軍は徳川綱吉
生類憐みの令が1687年頃なのでその影響もあるのでしょうか。
当時の禁漁区は南は駒形1,2丁目あたりまでなので
次くるときは厩橋までは釣りしないことにしようかな。
明治初期 1880年頃
〇駒形橋はありません。現在の駒形橋のふもとにあるなんとなくそれっぽい建物が駒形堂なのかしら。
江戸時代の地図と照らし合わせても合致しています。
駒形堂とはなんぞや。
浅草寺のホームページに解説がありました。
なんと推古天皇時代の628年に浅草寺ご本尊の観音様が現れて、この地に祀られたと。
徳川綱吉の生類憐みの令発祥かとおもっていたら
本物の聖域じゃないか。
これはもう、禁漁は守ろう。
今後はここでは絶対に釣りしません。(厩橋まで)
駒形堂は942年に平公雅によって建立。
平公雅は平良兼の子で、940年の平将門の乱の時に将門と対峙していましたが、直接戦う関係ではなかったようです。942年に藤原秀郷の後任として武蔵国司になっているので、その時に建てたのでしょう。
それにしても浅草寺の参道って隅田川にぶつかる形になっているのは、まさにそのぶつかった先に観音様が現れたからなんですね。なるほどなぁ。
地図に表記がないのは、ちょうど廃仏毀釈時で浅草寺の所領も没収となっていた時代だからかと思います。
明治後期 1910年頃
〇南側に厩橋ができています。1895年 明治28年開通
〇駒形堂の表記もあります。
〇東側の大名庭園はなんだろうなとおもって1855年の江戸時代の地図をみてみると、御老中 阿部伊勢守正弘 12万石 と記載。
大正時代関東大震災前 1920年頃
〇 関東大震災前 明治後期とそれほど変わっていないようにみえます。それだけ人口が密集していたということも言えると思います。
昭和初期戦前 1935年頃
〇 関東大震災後の都市計画で各道路の幅が広がりました。駒形堂がなくなり、浅草通りが通っています。
〇 駒形橋ができます。1927年 昭和2年 竣工。もうすぐ100年という古い橋なんですね。
〇 よく関東大震災で銀座浅草の人口が郊外に流出したという記事があるのですが、地図からだと人口が流出した様子というのはわかりません。ずっと人口過密地帯のようにみえます。
〇 凸版印刷工場があります。凸版印刷は明治33年創業。現在もこの地には凸版印刷のビルがあります。
戦後高度成長前夜 1955年頃
〇 地図だと戦前と戦後を通してそれほど変わっていないようにみえてしまいます。が、このあたりは戦災焼失地域で広く焼野原になってしまった地域です。
バブル期 1990年代
〇 この時期 隅田川テラス計画がぼちぼち始まってきたかのようにおもわれます。
隅田川テラス計画、本当に素晴らしい計画です。いままでの河川と人との断絶、例えば今まで都市河川といえば、5mくらいの高い壁がそそりたっている場所で、そこから先の川の存在は匂いのみで感じることができませんでしたが、こうして川が身近になるようになって、川に対する愛着もわき、河川を綺麗にという意識も働くのではないでしょうか。
〇 駒形堂には行っていないので、改めていきたいと思います。
〇 この辺りでの釣りはやめます。
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