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【江東区】東陽一丁目 洲崎跡地

始まりは東京時層地図で深川公園をしらべているときに、明治42年に公園内にできた深川図書館の筆頭の寄付者が

洲崎遊郭三業取締 弁天町 佐藤宗栄さん

ということがわかり、洲崎遊郭ってなんなの?どこにあるの??と興味を持ったことから始ります。

東京時層地図をみていくと、東陽町1丁目はかつて洲崎と言う吉原に次ぐ都内第2位の遊郭があったことがわかりました。

戦後は東側が洲崎パラダイスの通称で復興し吉原以上の人気を誇り、洲崎パラダイス赤信号という映画もつくられました。(1956年)

原作は芝木好子さんの「洲崎パラダイス」

「橋を渡ったら、お終いよ。あそこは女の人生の一番おしまいなんだから」(「洲崎界隈」より)

1958年の売春防止法によって、周辺は住宅街へと姿を変えていったということです。

以前から直接いってみたいとおもっていましたが、今回行く機会ができたので、洲崎を実際に歩きながら探索してみました。

ここから東京時層地図を始めてみましょう 通り沿いは商店がありますが、一歩路地を入ると住宅街となっています。

現代の地図


現在の地図だとこんな感じです。洲崎の真ん中を走る大通りはなぜ大門通りと言うのか疑問でしたが、遊郭があった頃には入口に大門があったのだと思われます。遊郭跡の形跡は見てとれますね。縦350m×横440mくらいの規模感です。今回歩いたのは洲崎の東側、偶然にも戦後の洲崎パラダイス側でした。

明治9~19年 1876~1886年

明治時代のこの時期には何もありません。埋め立てが始まるのが明治20年から。萱が生い茂っていたようです。住宅と田んぼの間の荒地という感じです。

明治39~42年 1906年~1909年

明治後期になって遊郭ができます。

○ Wikipediaによると洲崎は1887年(明治20年)5月の埋め立てにより深川区に編入。
富阪に東京帝国大学校舎が新築されるため根津遊郭が移転、1888年明治21年 深川洲崎遊廓の開業式。
埋め立て完成から開業までのスピードがスゴイ。よほど急いでいたのだとおもわれます。
根津遊郭なんてもののあったんだ。一部の東大生がハマりまくって問題視されていたとか。坪内逍遥の妻は根津遊郭の遊女。 
東大近辺にはまだ行っていないのでこれも宿題ですね。
それにしても一度入ったら、それこそ屍になって病院から出るしかないと思われるような洲崎遊郭の作りです。

○ 気が付きましたが東側には洲崎神社があります。洲崎神社は1794年創建  創建当時はこの辺りが海岸線で風光明媚な観光地だったとか。境内には波除碑があり、高潮の被害を伝える為につくられたと・・・・これまた行かないと。宿題。明治初期の地図を改めてみると神社のマークがあった。

関東大震災直前 大正5~10年 1916年~1921年

周りはぐるりと水路に囲まれ、出入り口は2か所。洲崎橋と病院からアクセスできません。入るのは洲崎橋、出るのは病院だったのかとおもうとなんとも重苦しい閉塞感を感じます。

昭和初期戦前 昭和3~10年 1928年~1935年

昭和になってもこの構図は変わらない感じです。戦争ではこの辺り一帯が戦災焼失地域になっていて、おそらく焼野原となっていたとおもわれます。

高度成長前夜 昭和30~35年 1950~1955年

周辺の埋め立てが始まっているように見えます。


○ 映画の洲崎パラダイス赤信号はまさにこの時期。(1956年)

400円払えば本編を見れるみたいですが、そこまでの探求心はなく・・・

○ 戦後に遊郭として機能していたのは東側の弁天町2丁目といいます。そういわれて地図をみると、一丁目と二丁目はまるで違う。
おそらく空襲で焼け野原になった場所で、むりくり遊郭を建てた場所と、遊郭の機能がなくなって住宅地になった場所の差でしょうか。

1958年に売春防止法が制定。

1888年の洲崎開業からの70年の歴史に幕。

深川図書館も洲崎の佐藤さんの多大な寄付があってできたもの。深川図書館行ってないな、行かなきゃ。

後世に名前を残したいお金持ちは公共の建物にお金を出すと120年経っても名前が残りますよ。

バブル期 昭和59年~平成2年 1984年~1990年

周辺は埋め立てられました。

東側を回ると壁のようなものがぐるりとこの街全体的に囲んでいるのはわかりました。
高潮予防するものなのか、もしくはそう簡単に人の出入りがないように防ぐものなのか。

感覚的ですが、洲崎自体周りの埋立地と比べて低いように感じました。

それは洲崎がこの近辺では早い時代、明治後期に埋め立てられたと言うことも関係しているのかもしれません。

後発の埋め立て地はもっと埋め立ての傘を増したために高くなったと思われます。

ちょっと街歩き

さて、ここからは少し歩きましたので、この写真を含めながらこうと思います大正時代の地図を参照とします

洲崎の南端の部分、南開橋です。南に開く橋。まさにその通り。奥の建物は深川第八中学校 川はボラがめちゃくちゃいました。
この部分から現在地を見てみます。
橋の下です。(笑) 落書きがあります。読解は不能でした。石が湿っていることを考えると満潮時はここまで水が来ているのでしょうか。
大正時代に病院だった場所に行ってみることにしました
都営アパートと公園でした。
気になるのはこの壁の部分です。この壁はいつからあるのか。洲崎パラダイス時代からあるのか。であれば、これは脱出防止用の壁なのか、それとも高潮防止の壁なのでしょうか。この壁の向こう側には何があるのでしょうか?怪談があったので登ってみると、普通に道路が走っていてその段差に驚きました。道路の部分はもともとは水路だったところなので、暗渠完全に埋め立てたのかのかは宿題としたいところです。
別な場所から隣の大きい建物との高低差を見ると、3、4メートル位あるのではないでしょうか。となると水害時はこの辺は心配な区域となりますね。とおもったのですが、ハザードマップをみるとそれほどでもなく、平均レベル。奥にみえる南陽小学校が高く埋めた立てられているので、低くみえているだけでした。江戸時代の高潮被害があった場所も、今の時代は南に塩浜、潮見、枝川、辰巳と埋立地があってほとんど内陸ですものね。
洲崎橋付近に皇太子殿下御降誕記念碑がありました。昭和9年。洲崎三業組合が造ったようです。皇太子誕生を記念する日は、文京区の須藤公園で見かけました。
おおもんどおり と呼びます。どうしてもダイモンとよんでしまう・・・
緑道公園には由来の書かれた石碑がありました。この地域は風光明媚な海岸線で、釣り、潮干狩り、月見、船遊びが楽しめたけれど、1791年の大津波でさびれたようです。明治19年の埋め立てで街並みが整備され繁栄を極めたとあります。

東京の歴史を知る上で重要な街歩きになったと思います。
ありがとうございました。


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