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真珠湾攻撃をした国とされた国~書かれる立場と書く立場から

 今年は旧日本海軍がハワイ・オアフ島の真珠湾(パールハーバー)に停泊していた米太平洋艦隊を奇襲攻撃してから80年です。勝利は一瞬のことで、のちの米軍による沖縄戦や広島、長崎への原爆投下など、日本の敗戦への序章となった日といえるかもしれません。
 日米両国にとって、民間人を含め多くの犠牲者が出た大戦でした。真珠湾攻撃の成功を報じた当時の日本の新聞は、国民の戦意高揚を煽る一翼を担っていました。
 一方で、現地紙「ホノルル・スター・ブレティン」は、12月7日の速報(ブレティン)で「日本の航空機がオアフを爆撃」として、驚きと困惑が記事に表れています。

19411207真珠湾記事一面

 私の手元に1941年12月7日の現地紙があるのは、以前、ハワイのアリゾナ記念館を訪れたときに、売店で買ったからでした。戦艦アリゾナは奇襲で撃沈され、乗組員の大半の1102人が死亡しています。その慰霊碑は大きくて、戦没者の名前が何列にも刻まれていました。
 慰霊碑の前に向かうとき、周りにいる米国人の目が気になったのも事実です。大半は歴史の一場面を見ようという観光客ですが、中には戦死者の名前を探している遺族の姿もありましたから。 
 アリゾナ記念館で当時の現地紙を見るまでは、書かれる相手への思いが欠けていたことに気づきました。ひと昔前の戦争報道ですから、相手の言い分まで書く、いわゆる公平・公正な報道には当てはまらないかもしれません。
 ただ、奇襲を受けた側が「リメンバー・パールハーバー」と叫び、戦争突入の「大義」にしていく起点になったことは、現地紙の衝撃度から知ることができました。

19411207真珠湾写真面

 日本からみれば「書かれる立場」の米国ですが、沖縄や広島、長崎の戦況でいえば、日本が「書かれる立場」でした。
 書く側は、書かれる立場のことを考える。新聞記者の鉄則です。戦争報道は異常事態下でしたが、日常的に相手がどう受け止めるだろうかと考えてみることは必要です。
 日本の一般紙が12月8日(米国時間7日)の「真珠湾攻撃」当時の証言を次々と紙面で掲載していました。そのなかで、「戦争に正義はない」「戦争は二度と起こしてはいけない」という証言者のみなさんの言葉が印象に残っています。
 アリゾナ記念館で戦死者の名前の刻まれたプレートを探していた遺族の人も、80年の歳月を経て、おそらく同じ気持ちではないでしょうか。
(2021年12月9日)

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