見出し画像

私たちは木に咲く花?

目標達成に向かって成長し続ける。
そんな人生がかっこいいとずっと思っていました。
でも、自我や集合意識について勉強していると、本当にそんなかっこいいものなんだっけ?と、ちょっと疑問に思うように…。
そんな問いにヒントをくれるNoriさんの動画がありました。

本当の願望実現とは

・成長したり目的を達成するために生きているのではない。ただ今を体現しているのが人生。
・こうなりたい、という願望は個別の我。我によって現状を改善しようとする(分離した我の作用で思考はこういう風にしか考えられない)。自分は満ち足りていない、という思いは共同幻想。

今この時を味わう事こそが人生。
願望は、自我がもたらす不足感の産物である可能性があるのですね。

また、本当の願望実現についてこのように説明されています。
・願いがかなう/願望実現 = 願いが消滅する
・希望を持つ = 願いが叶わない状態を保ち続ける
・望みがない = 今のままで満ち足りている
例えば、結婚したいと思っていた人が、「結婚=幸せ」という洗脳が解けた時、独身のまま(今のまま)で既に幸せだったと気付く、という感じです。

願いをかなえるとか、希望を持つとか、とっても耳障りがいい言葉というか、今まで良い事と信じて疑わなかった言葉ですよね。
でもそれって本当?それによって何だか都合よくコントロールされていない?と、点検してみる機会をもらいました。
四十路を迎えてもこういうパラダイムシフトを経験できる事は、私にとって大きな喜びです。

感謝と大いなる意識

この動画では、集合意識(サムシンググレートとか潜在意識なんていう言葉で語られるものと同義だと個人的には理解しているのですが)と感謝の関係についてもお話されています。

・人生は一つ、二つと数えられるものではなく、ただ大いなる意識があるだけ。でも人間は脳が肥大しすぎたため分離という幻想を見ていて、一人一人が個別の人生を生きていると錯覚している。
・私達自身が神様。(でも思考はこれを理解できず、自我はそうではないと思いたがる。) 神社はそれを思い出すための場所。
・本来、感謝は向こうからやってくるもの。自分が神様(愛そのもの)だという事を言語化して説明しようとする時点で、思考が入り二元の世界になってしまう。でも体や心はそれをわかっていて、ある時突然その事を思い出し、わけもわからず涙が止まらなくなったりする。(=自発的に起こすことは不可能)
・「ありがとう」のアファーメーションは、自分が神様だという宣言。

自分でもわけがわからず心が震えて涙があふれて来るのは、きっと多くの方が体験されていることと思います。私も何度もありますが、あれは感謝だったのか・・・?

自分=神様=集合意識=全て
壮大で神秘的な真理ですね。
真理とあえて書いたのは、「自分=全て」という感覚を過去に三度ほど感じたことがあるからなんです。一度は一人で登山をしている時、一度はヨガの最後のシャバーサナ中、もう一度はヒプノセラピーを受けた時。なので私にとっては真理なんです。
その感覚を説明しようと思うと、言葉にしたとたんに違ってきてしまいそうなのでここでは控えますが、、、

私は人の人生を考察するのに一本の桜の木を思い浮かべました。
花の一つひとつが私たち一人ひとり。でも同じ木(集合意識)に枝で繋がっていて、花は散る(一人の人間としては死を迎える)けど、木としては生き続け、また次の花が咲く(次の命)。
「一人一人が個別の人生を生きていると錯覚している」というのはそういう事なのかな、と思いました。
皆さんはどう思われますか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?