積読に関して


自分用の覚書

永田希『積読こそが完全な読書術である』イースト・プレス、2020年

 140頁10行目「「いまあなたに呼んでほしい」」は誤植でしょうか。

 第三章末、170頁「また、自身が少年期に登校を拒否して図書館に通っていた例を挙げながら、図書館の利用も推奨しています。これは「読書」の話として書かれていますが、実は自宅の本棚やクラウド上の電子書籍のアーカイブだけではなく、自分の行動範囲にある自宅外の書店や図書館などの施設も「積読」の範疇に含めていると考えることもできる話なのです。」

 この文章に関して、ちょっと思い出した事があるので。大学の頃、主に本を探しに行くのは大学図書館と学部棟の資料室、それから指導教員の研究室だった。ある日図書館に行ってみると、どうも棚の整理をしたらしく本の位置が動いていた。だいたい棚の半分ほどの幅に当たる量が左側に動いていたと記憶している。これには大変に困った。あそこの棚のあの辺にあの本があったなと思って行ってみればそこに無いのだからとても驚いた。わざわざ図書館据え付けのPCで検索して番号で探した。

 それから資料室の件。基本的に誰も整理しなかった資料室で、本が増える度に空いている隙間に突っ込まれていたので、秩序は無いに等しかった。そこを出入りして使っていれば、どんな並び方だろうがそのうち本の場所を憶えるというもので、図書館に無い本を補完する本棚として便利に使っていた。ところが、学部の事務員さんの顔ぶれが変わった途端、謎の熱意で資料室の整理を始めてしまわれた。分野や著者名できっちり並べて、初見の人には親切な仕様になったとは思う。ただ、私は本が見つけられなくなってしまった。完全に私情ではあるけれど、整理して欲しくなかった。

 指導教員の研究室は最も本の配置換えが少ない場所で、そこまで足繁く通ったわけでは無いけれど(もっと行けば良かったと後悔している)、だいたいどこにどの本があるのか見当は付いた。尤も教授がそれなりにジャンルごとに並べていたのも判りやすい要因ではあったのだろうけれど。

 という思い出がある。『積読こそが完全な読書術である』170頁前後の言うところを踏まえれば、自分は図書館や資料室や研究室を「積読」の場所として無自覚に利用していたと理解できる。あらかじめ本が積まれていて、それをあたかも自分で積んだかのように利用してしまう「積読」とでも言えば良いか。

 少し飛躍する。思い返せば高校3年生、大学センター試験の勉強をしていた頃、世界史の問題を見れば答えがわからなくとも教科書のどこに関連の記述があるのか、具体的なページ数は知らないけれどだいたいの場所は把握していた。あそこにあの情報があるなと、ある種「記憶術」(これも永田文献で触れられている)のような方法を使っていたのかもしれない。感覚としては本棚も同じだったので、こちらも身体的なイメージで捉えているのかもしれない。

 そういえば積読に身体性の要素を加えても良いのではないかと、永田文献を読みながら思っていたのかもしれない。後出しじゃんけん万歳。

 それからこれは自分の積み方の話。本を積むときは買った順に積むので、ぱっと見たところでは秩序は無い。実際無い。で、たまには本棚の整理でもするかと思い立って文庫は文庫、新書は新書、レーベルごとにそれなりに並べてみると綺麗にはなるけれどどこに何があるかさっぱりわからなくなる。これは部屋を散らかす奴の性ではないかとも思う。しかし本が外部記憶装置であるとすれば保存場所も記憶装置の要素を構成していると言っても良いのではないか。本へのアクセスを考えれば自分がわかりやすいように積んでおくのが一番だろうと思う。だいたい積む時の買い方を考えればその時々の関心に従って本を増やすのだから、その増え方に従った積み方も積読の構成要素としてしまって良いのではないか。本棚を片付けない言い訳として使えそう。

 積読と言えば、参考文献一覧はとても好き。永田文献の末尾にも付けてあるけれど、これがそのまま積読リストになる。本と本との関係を捉える上でも、この本が何を参照しているかが一目でわかる。永田氏はエピグラフがお好きとのことだけれど、私は参考文献一覧が好き。参考文献一覧を付けずに註を付けるだけの書き方もあるけれど、確かに方法の一つではあるけれど、あんまり好みではない。

 ここまで書いておいてなんだけれど、noteは改行したら強制的に行が空いてしまうものなんですか。仕様をよく知らない。

 そういうことで(どういうことで)、胸を張って堂々と積もう。そんなこと言ってないで論文読めという声は常に聞こえるのだけれど。


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