【インドの偉大な恩師:小西正捷先生に捧ぐ】

 「インド世界」の深層を発掘し続けた偉大なフィールドワーカー:小西正捷先生(立教大学名誉教授)が、去る2020年9月28日に逝去された。僕が勤めているデイサービスの利用者さんの年代に比べて、あまりにも「若すぎる」享年82歳。数年前から肺気腫を患っておられたそうで、ご子息の小西公大さんは、フェイスブック上で「10月3日には教会で葬儀を執り行いました。コロナ状況を鑑み、また母の意向で、家族葬とさせていただきました。父が息を引き取る直前、「よし!決着がついた!」と若々しい声を張り上げたと、母から聞いています。なんとも潔い旅立ちではございませんか。式を采配していただいた牧師の先生には、「お昼寝をされているような」稀にみる安らかな表情だと感心されたほどです。いやはや、父らしい。お見事。」と記されている。

《満月のような微笑みに秘められた鋭い感性》

 小西先生は、僕にとって偉大な恩師であり「インド世界」の大先輩である。小西先生が法政大学教授だった頃、滅多に授業に出ない僕が、欠かさずに聴講していたのは、小西先生の「文化人類学」講義だった。1978年の初インド旅で半年間撮りためた現地の食べ物の写真をお見せして、いろいろ失礼な質問をしてしまったが、いつも満月のような笑顔で微笑みながら、的確な評価と提案をして下さった。
 曰く「すでに出来上がった食物を記録しても意味がないです。むしろ一つの料理を、その材料が作られる過程、その流通過程、経済的な背景、そして実際の作り方までを一連の記録にしたら、そこから『文化』が探れると思います」と。
 1981年3月30日には、一般向けの著作『多様のインド世界 人間の世界歴史 (8)』(三省堂刊)が上梓された。それは、次のような魅惑的な書き出しで始まる。

「宇宙的な余韻を殷々と響かせながら、これ以上ゆっくりとは弾きえまいと思われるような速度でもってはじまったヴィラーヤト・ハーンのシタールも、アハマッドのタブラーの刻む早い華麗なリズムに呼応して、今は最後の楽章ジャーラーに向けて盛りあがっていく。(中略)
この音の中にインドのすべてがある。多様といわれるインドがすべて濃縮されて、一つとなってしまっている。厳密にいえば、彼の演奏は、北インドの特定の流派:ガラナに属するものであろう。しかし南インドのナーゲーシュワラ・ラーオの弾くヴィーナーにも、アッサーム辺境の名もない楽人の笛の音にも、常に何かインド的な匂いがするのはなぜであろうか。それを生み出し、支えてきた文化伝統は、言語も歴史も、ことごとくちがうというのに。
(中略)
わかったようでわからないインド。驚くべき多様性と、何かインド的な統一が矛盾なく同居しているインド。それがインドである。」

『多様のインド世界 人間の世界歴史 (8)』(三省堂刊)

 実に衝撃的で示唆に富んだ本書は、小西先生とインドとの「出会いの原点」が、中学生の頃、渋谷の「東横ホール」で開かれたインド舞踏の会であったことや、1962年の中印国境紛争の余波で挙動不審の外国人とみなされ、長時間の警察の尋問を受け「田舎のバス停で飛んできたトマトに唇を噛み締めた」という個人的なエピソード等々を挟みながら、インド世界のあらゆる多様性を時間軸と空間軸を跳躍しながら余すことなく示すと同時に、その奥に潜む「インド的統一性」さえもあぶり出すという、果敢な挑戦に満ちた素晴らしい本である。

《小西先生の「原点」とは?》

 一体、小西先生の「原点」とは、いかなるものだったのだろうか?
(以下、2014年9月・日本南アジア学会27回全国大会「先達に聞く」での対談を元に構成させて頂いた)

 小西先生は、1938年(昭和13年)12月16日生まれ、東京出身。鉱山の仕事をしていた父親は尺八を吹き、姉は琴を奏でる「邦楽」の家で、三曲(三味線、箏、胡弓)はもとより、宮内庁楽部に出かけていって雅楽を聴くという、変な少年だった。舞楽とか雅楽の様々な音、または衣装などを見るにつけ、そのルーツがインド世界、南アジア、中央アジアにあることに気づいて、それについての関心を深め、本当に子どもの時から「どういうわけかインドが気になってしようがなかった」そうだ。
 戦時中は「少国民」としての教育を受け、国民学校の1年生として、乃木坂下の乃木国民学校に入ってすぐ、入学式もそこそこに学童疎開。家を離れ多摩の是政のお寺に預けられて、朝晩に般若心経と教育勅語をずっと唱えさせられていた。
「まだ6つかそこらで家を離れ、家族と別れることがどんなにつらい、悲しいことか、またこんなにもお腹がすくことかということは、いまだに忘れられない。東京大空襲の火の海を遠くから見てふるえあがって、みんなで抱きあって泣いたことを憶えております」
 そして、小西少年の心に鋭く突き刺さった言葉は「非国民」。次のような近年のエピソードを語る。
「連続テレビ・ドラマの『花子とアン』に出てくる一人が、村の近所の人たちから「非国民」という言葉を浴びせられたとたんに、私は思わず、家内がびっくりして飛びあがるような声で「ばかもん!」と叫んだんです。私は寝ているときにもときどきうなされて、それと同じような叫び声をあげるんだと家内に言われて、これはまさにトラウマだなと思いました。」

 以降、「国」というものに対するとてつもない嫌悪と不信感が募り、いまだに「国」や「我が国」という言葉を使いたくないと断言する。
「インドの場合をとってみますと「国語」というものはありません。ベンガルに住んでいれば、ベンガル語が使われヒンディー語が使われ、さまざまな言語が使われますが、いわゆる「母語」はあるけれどもそれは「母国語」ではない。ベンガル語を話す人たちにとってヒンディーは「外国語」ではないのです。「外語」というのはあまりなじみがないことばかもしれませんが、そこに「国」を入れてはいけませんね。いずれにせよ、「国」というものについて口にするのも憚られるようなことが、インド研究の場合でもよく出てくる。そもそも「インド」というのはなにを意味しているのか。国なのか地域なのか、何なのか、どうも困ってしまって……。」

《押しつけられるとすぐ反発したくなる悪い癖》

 さらに大学以前ミッション・スクールの青春時代。そこは非寛容なプロテスタンティズムが跋扈していて「Godのほかに神はなし」。しかもその神を表す場合、Gは大文字で書く「The God」。しかし、神々の世界に関心があった小西青年にとっては、小文字で複数の「gods」。「それではぜったいにだめだ」「そういう考え方は捨てろ、捨てろ」と、日常的に友人たちや先生方から責めたてられた。

 「私はそのように押しつけられると、すぐ反発したくなる悪い癖がありました。倫理学の先生で宗教の先生ではなかったのですが、『ウパニシャッド』というものがあることを教えてくれた方がいました。
 そこでは、よく引かれる卑近なたとえですが、「富士山に登るにはいろいろな登山口がある。どこから登っても頂点は一つでしょう」ということで、「互いの立場を認めあい、そしてその神に出あうべく努力しなさい」と教えられました。これがある意味でヒンドゥー教の究極的な教えであるわけですが、これにたいへん惹かれたのです。そしてその先生が按手礼を受けた牧師さんであることもあって、その先生から洗礼は受けたのですが、キリスト教の教会に属してそのコミュニティの一員となることはどうもできないまま、現在になってしまっております。その点はいいことだとはちっとも思わないのですが、どうも押しつけられることが嫌いな人間なものですから」

 そんな小西青年の「押しつけられるとすぐ反発したくなる悪い癖」は、国際基督教大学時代でも炸裂する。いずれインドに行きたいと一所懸命インドについての勉強を続けていたが、そこはアメリカナイズされた大学で、まわりの人たちはアメリカ一辺倒。アメリカ式の英語でアメリカ式の教育をするというところだった。皮肉なことに、小西青年の成績で最低の「可」=「D」をくらった科目が2科目だけあった。それがなんと、英語と文化人類学!
「なぜ私が英語で「D」をくらったかというと、とくに叱られたのは「発音がだめだ」と言うんですね。それまで私は、それこそJOAK、ラジオ放送でルイス・ブッシュさんというイギリスの先生が「Current topics」というものをずっと流しておられていて、それで耳慣れていたので、ブリティッシュ・アクセントの英語、クイーンズ・イングリッシュに慣れ親しんでいたのです。それが急に「Californian American」になっちゃったわけですね。そのCalifornian American accentというものはどうしても──できますよ、簡単にできるんですけれども、やれと言われるとやらない、わざとやらないというようなことで、とうとう「立ってなさい!」と。(笑)大学生を部屋に立たせるか、とかいう英語の授業だったのです。(笑)
 文化人類学のことも言っておこうかな。大学では、日本人の先生方よりもよっぽど高給でアメリカから先生方をよんできていて、その格差もすごく不愉快でした。そのなかで、旦那が経済学者で経済学の授業をもっていたのはそれでけっこうなんですが、その奥さんが心理人類学──とくにあのころは「文化とパーソナリティ論」というのがはやっていたころで、それをアメリカの大学でちょっとかじっただけで、それを講義なさっていた。それでおもしろくないからいい加減なレポートしか出さなかったので、人類学でDをくらってしまったのです」

 学生時代、「英語と文化人類学」がまったく認めてもらえていなかったこと、それは小西青年にとって輝かしい勲章となったのであった。

《貧しかった日本から新生インドへ留学》

「南アジア」と「インド世界」─周縁からの視点─南アジア研究第22号(2010年)では、当時を振り返って以下のように述べられている。

「実際私が「インド」を強く意識しだしたのは、1955年のバンドン会議(第二次世界大戦後に独立したインドのネルー首相、インドネシア大統領スカルノ、中華人民共和国首相周恩来、エジプト大統領ナーセルが中心となって開催を目指した会議の総称)以来のことである。「少国民」として敗戦を迎え、打ちひしがれたような当時の日本の世相にあって、それとは対照的な(かつては日本を含めた大国の植民地であった)アジア・アフリカの首脳たち、とりわけインドのネルー首相の言動は輝かしかった。この大国の底力は何に由来するのであろうか、というのが、私の素朴な疑問であった。

 その頃の神田の古書店街には、戦前に発行された「印度」や「ガンヂー」、「タゴール」に関する古書があふれ、憑かれたようにそれらを買いあさる傍ら、1956年の日印文化協定締結を期に来日しだしたインドの優れた音楽・舞踊家たち文化使節団の公演(もったいなくも、いつもガラガラであった)にも足を運んで、インドに対する憧れを募らせていった。

 この頃までにはインド政府招聘による留学制度も発足し(1951~)、戦後インド研究の第一線を担う研究者たちが旅立っていった。そのなかには中根千枝(社会人類学、特に母系制社会の研究)、荒松雄(インド・イスラーム中世史)、土井久弥(ヒンディー文学)らがいた。その分野は「印哲梵文」や「仏教学」がインド研究の主流であった当時としてはやや珍しい、いわば周縁的な分野である。
 新生インド政府があえてそれを鼓舞した面もあったのかもしれないが、海外留学といえばまずはアメリカなどからの資金を得、それをもって現地調査、というパターンが一般的であった時代に、(貧しいはずの?)インド政府が、外貨の用意もないほどさらに貧しかった日本からの留学生を受け入れ、教育してくれた事実は、幾度強調してもしすぎることはない。
 そして私もまた1961~64年にこの制度の恩恵を受けてカルカッタ大学に留学したが、美術・考古学という(これも浮世離れした)その専攻分野は、なぜ「印哲」やインド仏教ではないのか、あるいは新生インドの政治・経済ではないのかという日本人からの疑問、もしくはなぜ医学・工学のような「役に立つ」ものでないのかというインド人の側の質問にしばしば当惑させられた。 そこにはいまだ、日本とインドとの間の認識の大きな断絶があった。(引用終わり)

「南アジア」と「インド世界」─周縁からの視点─南アジア研究第22号(2010年)

《小西先生の著作から生まれた拙著『インドを食べる』》

『多様のインド世界』の「あとがき」には、こうも記されている。

「インドそのものを描くつもりであっても、結局は誰の手になっても、それは単に、無数にありうるインドの顔のただ一つをあらわしたことにすぎずに終わるのではなかろうか。願わくば本書も、そのふれえた問題に関する限りでは、大過なくインドなる巨象の一部をあらわしえたことになればと念願するばかりである」(引用終わり)

『多様のインド世界 人間の世界歴史 (8)』(三省堂刊)

 僕は、小西先生のこの一言に逆に勇気づけられて1986年、拙著『インドを食べる』を上梓した。
 ちなみに、僕が勝手に名付けた「インド探検India Exploration」の対象となる「インド世界」という文言は、本書『多様のインド世界 』から頂戴したわけである。
 まさに脂ののりきった時期の小西先生は、超多忙にもかかわらず、1986年7月5日、赤坂見附のインド料理店にて開かれた『インドを食べる』の出版記念パーティーにも参加して下さった。学生時代から『インド通信』を通じてお世話になっていたインド映画紹介の先駆者である松岡 環女史や、当時日印協会専務理事を務めていた鹿子木謙吉氏も馳せ参じて下さった。

 同年4月21日に小西先生が上梓された『インド民衆の文化誌』(法政大学出版局刊)も、僕にとってバイブルのような本である。『インドを食べる』の第1刷発行が同年4月25日なので、ほぼ同時期に出版されたわけだが、素人の紀行文とは違って、『インド民衆の文化誌』はそれまで小西先生が記してきた20年間の集大成。「序章」には、1961年冬、初めてのインド考古学踏査の体験から始まり、当時の小西先生のインドへの深い思いが記述されているので、以下に抜粋させて頂く。

 堂々たる建物が立ち並び、ロンドン風の二階建てバスが走るカルカッタのような大都会ですら、自動車のあいだをぬって、ゴトリ、ゴトリとモエンジョ=ダーロの時代を思わせるような牛車があるいているのである。
そして、大学に帰りついてから、再調査をした採集物の中に二個の完璧な初期の旧石器をみつけたとき、われわれは狂喜した。野原から一万年もの昔のハンド・アックスをひろう、こんな「ひろいもの」ができるのも、インドならではのことであろう。
(中略)
 私はインド政府の招聘で、カルカッタ大学に考古学の研修にきた。
 しかし、あの喧騒の(それだけに活力は感ずるけれども)大都会のアカデミズムの殿堂で、十九世紀的な英語で書かれた参考書を読み通すよりも、こうしてあるときは滔々たる大河の流れをみつめ、そこに沐浴する人々をみつめ、またあるときはその人たちと一緒になってチャパーティーやダールをモソモソ食べる、そうしたときにこそ、最も私はインドの歴史を胃袋から感じ、私の血になっていくことを思った。

 いわゆる「汚い」「無学文盲」のこの人たちこそが、インドの歴史の匂いをもっている。枯草くさい、酪乳の匂いのする、きついインドの体臭をもっている。この匂いはネクタイをしめ、英語を流暢に話すインド人にはない。
 退廃した都会から出てみれば、この国は、原色の燃え上がる、熱狂的なドラマのある国であった。きつい匂いの、愛のある国であった。
 インドを掘ることになっている私は、このインドを掘らなければいけない、このインド人を掘らなければいけないと、いいきかせつづけていた。
(中略)
 インドの何かを「掘りあてる」ことができたろうかといえば、甚だそれはこころもとない。鋤を入れれば入れるほど、インドの大地はその深さを示すのみだったからである。
 やがて私は、インドの人びととのつきあいの中で、いつかせまい意味での考古学や美術史を逸脱し、くらしの文化そのもののうちに、インドのインドたるありようをみつけることに専念しだした。中でも、彼らのくらしのうちに大きな位置を占める広義のヒンドゥー教やその観念が、まつりや儀礼、手仕事や芸能、もしくは日常の衣・食・住のうちにどのようにかかわっているのかが関心事となっていく」(引用終わり)

『インド民衆の文化誌』(法政大学出版局刊)

 『インド民衆の文化誌』「序章」に記された「くらしの文化そのもののうちに、インドのインドたるありようをみつけること」という文言。これは僕の「インド探検」のテーマでもあり、小西先生から授けて頂いたこの上ない薫陶のたまものに他ならない。
 また『多様のインド世界』「あとがき」ページには、「象主の国インド・・・象に寄生する異なった細菌:バイキンの立場から」という当時の僕の汚い字の書き込みがあるが、これが『インドを食べる』の元来のコンセプトだったのかもしれない。
 果たして小西先生の薫陶をうけた「インドという巨象に寄生したバイキン」は、その後如何なる過程を辿ることになったのか?

 1977年から78年に半年間インドの主要観光地を巡り、単なる食べ歩きに終わった初回の「インド探険」を評して小西正捷先生曰く「すでに出来上がった食物を記録しても意味がないです。むしろ一つの料理を、その材料が作られる過程、その流通過程、経済的な背景、そして実際の作り方までを一連の記録にしたら、そこから『文化』が探れると思います」
 この貴重な薫陶を受けて、1982年、僕は2回目の「インド探険」に旅立った。
 今度は「食べる側から作る側」へと視点を変え、「食の流通」を探るべく約5カ月間、南インドを中心にさらに深いアプローチを試みた。大食堂で供される料理を起点に、謂理場から生産地までの逆流ベクトルを追跡調査し、食の流通過程にかかわる人々の生活を探りたかったのだ。ところが、これが学校でいえば専修課程。一品の料理を形成する材料の名称や種類さえわからない始末。現地で一からやり直し。やがて、流通過程の中枢がほかならぬ「市場」であり、それが「食の一般教養」の師でもあることを悟り、市場の総合品目調査から開始した。フィールドは南インド、ケーララ州の台所エルナクラム。一般にはコチ(コーチン)と呼ばれ、大航海時代「海のシルクロード」の重要な港のひとつである。ケーララ地方は香辛料の宝庫として有名で「食の流通」を調べるフィールドとしては絶好の地域だった。まな板は何気ない日常の生活。極上のネタ=インド世界を横たえ「食」という包丁を振り下ろしてみた。
 毎日市場に通い詰め、問屋や商店の種類別の配置図を書き、そこで取り引きされている野菜・肉・果物等々の生鮮食料品をはじめ、米や穀物類・香辛料・調理用具等々の名称・形状・価格などをマクロレンズで接写しスケッチに記録した。最終的に確認できたのは、野菜34種、果物13種、米20種、その他豆類や雑穀類及びそれらの加工品53種だった。

《探し求めていた表現方法「虫瞰」から「鳥瞰」へ》

 そんな「虫瞰」としての市場総合品目調査の終盤、僕の脳裏にインスピレーションが閃く。 

「いっそ、この市場を丸ごと鳥瞰図で描いてみよう!」
 
 実は、これがめちゃくちゃ楽しい作業となった。市場の連中とはかなり親しくなっていたので、各人の仕事風景を鳥瞰図に小さく描き込んであげると、「おお、これが俺か、じゃあ、あいつもここに描いてくれなくっちゃ困る」と知り合いの店先に連れていかれ、バナナ問屋では「これはマイソール産、こっちはケーララ産のレッド・バナナ、それぞれ形が違うんだからしっかり描いてくれよ」と注意される。向かいの八百屋からも声がかかり、「おい、この構図じゃ、うちの店は影になって入らないじゃないか。なんとかしてくれ」とクレームがついたのをキッカケに、野菜や果物の形までわかるように横長のスケッチでお店をズームアップした構図で描く羽目になってしまった。これが鳥瞰図に対する、いわば虫瞰図である。こうして市場中を虫のごとく這いずり廻り、というか引きずりまわされながら、「鳥」と「虫」の視点によるスケッチが出来上がっていった。そこには、一瞬のシーンしか記録できない、写真では表現できない「時間列」の情報が含まれていた。一枚の絵のなかに、早朝・昼下がり・夕方の市場のエッセンスが詰め込まれていたのだ。
 「これだ、これなんだ!」と僕の内なる声が叫んでいた。

 インドを記録するという点において、自分なりの表現手段が見つかった悦びで、宿に戻ってからは、明け方までスケッチの清書に没頭した。文房具屋の店主に掛け合って、当時最先端の日本技術が詰まったステレオ録音ができるカセットテレコ(音量ボリュームつまみが壊れかけていた)と0.1ミリの極細線が描けるドイル製のロトリング一式を交換。生まれて初めて0.1ミリという極細の筆記具を手に入れた。こうなるともう、夢中で描きまくった。

「ついに探し求めていた、自分だけの表現方法が見つかりました!」そんな熱烈な思いを込めた長文の手紙を小西先生にしたためた。

 小西先生の返信ハガキには「色々大変なこと、楽しいことがあるでしょうが、くれぐれも体にだけは気をつけて無理をしないこと。無理は最も非インド的なことなのですから。時々近況をお教え下さい。成果を楽しみにしています」と先生独特の筆致で記されていた。

小西先生の心配は見事に的中した。「最も非インド的な無理」を重ねた僕の身体は、急性A型肝炎に罹り、生まれて初めて、しかも南インドの地で2週間の入院生活を余儀なくされたのだった。「インド探険」パート2は、やむなく中断とあいなった。

《風まかせの旅・村世界への憧れ》

 帰国後、九段の純インド料理店『アジャンタ』でのアルバイトで再び渡航資金を稼ぎながら、1983年・1984年と立て続けに「インド探検」パート3・4の旅を遂行した。今度はカメラもテレコも持たない。数本のチャコール・ペンシルと大量のスケッチブックをザックに詰め込んで、裸一貫でインド世界と対峙してみようと思った。行動計画も調査項目もない「風まかせ」の旅だ。

「その村には、電気もトイレも何もなかったけれど、そこにはインドの村びとたちのホスピタリティがあった。宏壮な風景美があった。みわたすかぎりの赤茶けた荒地、ところどころに露出した雲母層、方解石か石英のような結晶、貧相な草。ときにそこに冬の陽をあびて、忘れられたようなメンヒル(立石)が立ち、わだちの音がかすかに天に抜けるような牛車が通り、ときに週二度の市がたつのだった。市(バーザール)には、鈴をつけた山羊や牛が集まっていた。近隣の村からは村びとたちが牛車に乗って集まってくる。どぶろくの匂い、お茶の匂い、ならんだ煙草屋、砂糖キビの店が、賑やかなバーザール風景に、心楽しい景観を添えていた。米をはじかせたムーリを食べたり、そこここの村びとたちと挨拶を交わしながら夕方のバーザールを歩きまわっていると、私はいつも、自分の異質な文化のことをすっかり忘れた。夜ともなれば地酒に酔ったサンタル民族の連中だろうか、素朴な合唱と土製の両面太鼓マドルの音が、牛車でまた数キロの道を帰る私たちを追って聞こえてきた」(引用終わり)

『インド民衆の文化誌』(法政大学出版局刊)

 前掲の『インド民衆の文化誌』「序章」に綴られたビハール州と西ベンガル州の境目辺りにある田舎村の美しい描写である。
 かつてマハートマー・ガーンディ翁は「インドを知りたくば農村へ行け」と宣うたが、純インド料理店『アジャンタ』のシェフであるカルピーヤ・マニさんの故郷の村を短期間訪れただけの僕に、思わぬ「縁えにしの風」が吹いてきた。

「僕の村においでよ。大きなバニヤンの樹があるんだ。夏祭りもいっぱいやってるよ」

 マドラスで偶然知り合った親友S.P.ヴェラユタム君(23)に誘われて、彼の故郷の村「パッタマンガラム」を訪れる機会を得た。位置は壮大なミ―ナ―クシ寺院の寺町として名高いマドゥライの東南東約80キロ。タミル地方でも最も乾ききったドライ・ゾ―ンにあたるド田舎のひからびた村。「パッタマンガラム」とは、タミル語で「枯れた女たちの里」という意味だ。
 ここ3年ばかり、異常な干ばつに見舞われていたせいか、大地はひび割れ、トゲのついた低木が荒れ地にこびりつくように密生していた。ココヤシの姿は少なく、乾燥に強いパルミラ・ヤシが弱々しく林立して、激烈な陽光をあおぐようにしながら微かな陰りを遊牧の山羊飼いたちに提供している。入村したのが3月末。これから灼熱の季節がやってくるというのに、「こりゃ、たいへんな所に来ちまったなあ。早々に切りあげて涼しい高原に逃げなくっちゃ」というのが正直な心境だった。ところがどっこい、結局僕はこの村に7月末までのまる5ヶ月間を過ごしてしまう。さらに、翌84年もまたこの村に帰り、約7ヶ月間暮らすことになるのだった。

 根っからの食いしん坊でもある僕は、いろいろな場面で本場のカリーと遭遇したが、結婚式や葬式、その他の祭礼はもちろん、やはり一番強烈だったのが、村祭りのときに野外で食べたカリーだった。特にお祭りのときに有力者の寄進によって無料で施される料理は、庶民の最大の楽しみのひとつで、数百人、あるいは数万人の人々が神様の前で一緒に『天竺の直会なほらい』を頂く。あるときは田畑のど真ん中で、ヤシの木陰で、聖なる川の傍らで、岩山の上で、老若男女を問わず、大地の上にしゃがみこんで、バナナの葉皿に盛られたカリーを食べる。周りには残飯をねらって牛や犬、猿が徘徊し、上空には禿げ鷹やカラスが旋回している。真上から照りつける強烈な太陽光線にさらされ、祭の花火や太鼓の音が耳をつんざく。熱気とカリーの辛さで身体中から汗が拭き出て、頭がぼーっとなる中、手指でライスとカリ-をよ-く混ぜながら、香辛料の芳香を臭覚で楽しみ、手指の触角で感じ、具と汁とライスが融合した過激で微妙な調律を味わうのだ。
 天空には強大な「熱球」が凄まじい熱量を注ぎ、バナナの葉皿の真下はむき出しの大地。一枚皮をむけばそこには巨大な「地の球」が君臨している。大地との一体感なんてものではなく、自分が大地に食べられてしまうような圧倒的な「咀嚼感」。そこに野外で食べるカリーの醍醐味と真髄が秘められていた。
 さらに1984年の2度目の滞在では、持参したカメラ機材一式をヴェラユタム君に譲り(彼は結婚式の写真撮影で生計を立てられるようになった)、ともかくひたすらスケッチを描いた。対象はもっぱら人間。一番たくさんモデルになってくれたのは子供たちだった。彼等の瞳の内に輝く、たくましい命の輝きを直に感じた。乞食のおじさんとも同じ視線で語らうことができた。カメラならば金を請求してくるのに、なけなしの金でお茶をご馳走してくれた。サラリーマンからは1ルピーの喜捨をもらう。いままで決して入れなかった寺院の本殿で御本尊を描くこともできた。このような一対一の出会いに基づく「虫瞰」から、多くの人々が集う祭礼や結婚式などの様々な儀礼の様子、寺院そのもの、寺院をとりまく鎮守の森、それぞれの家、部屋、台所、市場、そして村全体を附瞰した「鳥瞰」まで。自分が体験した様々な事象を夢中で描いていった。

《天竺の直会・ゴッタ煮鍋の底に観たインド世界の核心》

 南インドの農村で暮らした延べ一年余。「枯れた女たちの里」は、いつしか僕の裡で『光らびた女たちの里』となっていった。そこでかいまみたタミルの世界には、濃厚なヒンドゥ―教のフィルタ―を通して、なにやら得体の知れない土着信仰が脈々と生きずいているのがみえた。ここには、古(いにしえ)のインドがある…と思った。
 小西先生の『多様のインド世界』「あとがき」ページには、「象主の国インド・・・象に寄生する異なった細菌:バイキンの立場から」という当時の僕の汚い字の書き込みがあるが、これが『インドを食べる』の元来のコンセプトだったのかもしれない。
 やがて「象主の国インド」は「ヒマラヤ山脈に蓋をされ、あまたの具をグツグツと煮込んでいる森羅万象のごった煮カリー世界」となり、「象に寄生する異なった細菌:バイキン」は、「異物に過ぎなかった僕」と変化していった。「古(いにしえ)のインドがある」と僕が感じた南インドの農村は、「ゴッタ煮鍋の底に君臨するインド世界の核心」という表現になっていった。

僕は「天竺の直会=なほらひ」でインドゴッタ煮鍋の「七味」を観ました。

「辛味」-----それは、雄々しい創造化育とたくましい人々(マサーラー)が織り成す刺激。すなわち、インド世界の圧倒的な「活力」。

「甘味」-----それは、生あるものを慈しむ心。すなわち、三世にまたがって遍満している「輪廻愛」。

「塩味」-----それは、多すぎても少なすぎてもいけない中庸の味。持っている者から持たざる者への施し。すなわち、「喜捨力」。

「酸味」-----それは、数千年の年月をかけて醸造されたインド世界のヨーグルト。天と地、宇宙意識(ブラーフマン)と自我(アートマン)、自然と人間、油(パッカー)と水(カッチャー)、男と女。それら二なるものが一なるものに交ぐわう時に生じる生殖力。すなわち、艶かしいエロスを秘めた「性力=シャクティ」。

「苦味」-----それは、快楽(カーマ)と利益(アルタ)を求めて生き抜く人々の図太さとしたたかさ。すなわち、インド世界の「遠心力」。

「渋味」-----それは、ぬぐり去りようがない業(カルマ)。じんわりと舌に残り続けるジャーティ(カースト制)。いまだ、熟しきらない人間たちを律して、欲望のまぐわいを制御する。すなわち、インド世界の「求心力」。

「旨味」-----それは、ゴッタ煮ナベのあらゆる具(カリ)にゆるりゆるりと浸透し、混沌たる多様性に秩序を与える動き。インドをインドたらしめる「負のエントロピー」。すなわち、「もちつもたれつ」の原理。

拙著「インドを食べる」第4章扉より

《偉大な恩師の最期の薫陶》

 上記は、完全なる僕だけの勝手な「インド世界」の解釈だ。僕は学問や探検とはほど遠い「感性」の世界に逝ってしまった。小西先生から授かった薫陶を蔑ろにして【無手勝流】に陥ったのだった。

 それから幾星霜、生活に追われて迷走するうちに35年以上の月日が過ぎ去ったが、「ゴッタ煮鍋の底に君臨するインド世界の核心である古(いにしえ)のインド」は、未だに世の中に問えるような「カタチ」にはなっていない。
 小西先生のつぶやきがきこえる・・・
「君は自己満足の世界にいってしまったのですか? 検証には単なる思い付きや類推ではなく、実際のモノを介しての緻密な手続きが踏まれることが必要です。大風呂敷をひろげることもいいですが、実際には当然、事物に基づく細かい事象の解析を着実に積み重ねていくよりほかはないのです。
あるモノのもつ力というのは、やはりそれがどれだけ暮らしに根ざしているかということなのではないかと思っています。それが暮らしから切り離されたときに、それは単なる、それこそ絵空事になってしまったりする。そのことの脆さですね。そこをしっかりと見定める。守らなければいけないのはモノや技術ではなく、それを生んできたその背景、磁力と言いますか、その村落社会自体のもつ力ではないでしょうか」

 その後も僕は、事あるごとに現状報告を兼ねて毎度お馴染みの長文の手紙を送りつけ、小西先生は、その内容に即した貴重な資料や文献、最新の著作等々を送り返して下さった。

 とりわけ『インド・大地の民俗画』沖 守弘 (写真)・小西正捷 (本文・解説)2001年未来社刊は圧巻である。
「インドでは、季節の祭りや人生儀礼、日々の祈りの際に、吉祥の文様が庭や土壁に描かれてきた。米粉による民俗画は、女性によって継承され、下絵も無しに闊達な線で描かれる。失われつつあるインド各地の床絵・壁画をその描き手の暮らしとともに記録し、系統的に紹介。人びとの暮らしの中に生き続ける民俗画の源流を探る、初めての本。」とされているビジュアルな大著だ。マザー・テレサの写真記録によって国際的に著名な写真家である沖氏の素晴らしい写真と小西先生の詳細な写真解説、さらに『インドの儀礼的床絵と壁画ー伝統と変容』と題された小西先生の本文に魅了された。
 1994・95年、小西先生と沖氏は、カルカッタ・サダルストリートの安宿で幾日にもわたって起居をともにし、相談を重ねていたという。

 一方、同書が発刊された2001年の少し前、インターネットの電脳空間では、1999年からHP「インド探検」を立ち上げ、南インドでコーラムと呼ばれる女性の家庭芸術「吉祥文様の床絵」のフラッシュ・アニメーションを夢中で作っていた僕と、初の日印ポータルサイトIndo.toを運営していた画家・装丁家の矢萩多聞氏が日夜濃密なメールでの交流をしていた。
 そこから生まれたのが「KOLAM PROJECT」。
 知られざるコーラムを日本に紹介することを目的に、コーラムアニメとインド製口琴のコラボレーションを、神保町のインドセンターを皮切りに、東京薬科大の学園祭、在日テルグ人会のイベント、六本木の居酒屋「エークルピー」(日印共作長編アニメーション映画『ラーマーヤナ/ラーマ王子伝説』を生み出した酒向雄豪氏の奥様が経営)等々で展開した。トランス、ハードハウス系音楽空間の中に、超高速のコーラムアニメとインド口琴とのアンサンブルが実現したのである。

HP「インド探検」を立ち上げ、コーラムアニメを夢中で作っていた頃、いつものごとく小西先生に長文の手紙をしたためたら、速攻で次のような返事を頂いた。

拝復。コーラムの素晴らしい資料とお手紙をお送り下さりありがとうございました。まことに素晴らしいHPを作っておられることを知り、もっと早く教えてほしかった!
というのは、「床絵と壁画」の本を書き上げたばかり(近々お送りします)。”The Language of Symbols”(持っていません、欲しい!!)を含めて書ければよかったと残念です。是非また何かとお教え下さい。とり急ぎお礼まで。草々。

小西先生からの手紙

その後、僕は柔道整復師の国家試験の勉強に忙殺され「KOLAM PROJECT」は中断。小西先生が戒めた「絵空事」の世界に突っ走ってしまった感は否めない。
 さらに、インドで描いた約2千点のスケッチを元にした動画を作成してYouTubeにアップしていた矢先、あの忌まわしき東日本大震災が発災!未曾有の大地震・大津波と福島第一原発事故に苛まれた日本に意識が移り、「インド世界」ははるかに遠い存在になってしまった。

 近年は年賀状だけのお付き合いとなり、2018年頃に「寝たきり」の生活を送られていることを知った。2019年4月に先生の御宅を訪問した法大探検部の先輩は「ご自宅は元大工さんの家で、大工さんが作業場として使っていた建物(大きな建物で天井も高い)を先生の書斎にされていました。室内は蔵書であふれんばかり(優に5000冊以上の本)で、小さな図書館のようでした」と。

 臼田雅之氏(東海大学名誉教授)曰く
「御宅のすぐ近くには坂東太郎:利根川が流れています。土手から見渡す大利根の滔々たる姿は、バングラデシュで見た聖なるガンガーの光景を彷彿させるような、またスケールもけっして劣らない雰囲気があったのです。こういうところで、利根川の水の音を背後に感じつつ、先生が座りながらお仕事をされている」
 小西先生曰く
「やはり日本人ですから、日本文化というもの、そしてそのなかでも私がどこにその根をもつか──実際には我が家は6代にわたって東京、江戸の人間で、そういう家系のためあまり地方的な文化の根をもっていないので、なおのことこだわりがあるのかもしれません。それで東京を離れて、最初は市川、それから船橋、習志野とどんどん東京から遠くへ行って、いまでは香取郡に住んでいるという次第なんです。

どうしてこのように千葉の奥へ奥へと行くことになったのか?

戦後はおなかがすいてたまらなかった、都心の赤坂ではほんとうに食べるものがなかったということ。ほとんどそれは、今でも脅迫観念です。ところがこちらに来てからは、なにも言わなくても門の外にだれかが野菜か米を置いていってくださる。そういうところに住んでいるものですから、これはもうたまらんですね。(笑)」
 もうたまらなく、おもしろいものを見つけること──おもしろいと感じるものを常に奥へ奥へと探し求め、インドの普通の庶民たちの文化の中に「美しさ」を見い出し、「顔の見える人類学」「暮らしに根づいたモノ・コト」としてまとめあげてきた小西先生。
 再び、臼田雅之氏曰く
「小西先生は非常に角をたくさんもって──「圭角」という言葉を使えばきれいになるのでしょうが――いろいろなものに違和感をもたれて、その違和感のなかから新たにご自分の発想をされていく。それら多岐にわたっている部分を全体として見渡すと、それらは決してバラバラではなく、なにか一つの中心があって、そこからすべてが光線のように出てきて、できあがってみると一つの親密な世界が創り出されてゆく。真の意味でクリエイティブな存在であられたのだろうと思います」

 小西先生の辞世の言葉「よし!決着がついた!」と若々しい声を張り上げられるように、今後も精進してゆきたいと、心底思う次第である。
 あの仏さまのような笑顔で、僕のような若輩者も含めて幾多の優秀な後輩たちを育て、尚も、誰もしなかった分野を次々に開拓し「鋤を入れれば入れるほど、その深さを示すインド」に肉迫し続けた麗しき「圭角」の恩師:小西正捷先生。

 どうか、あの世の「天竺」でゆったりと、私たちを見守っていて下さい。

 慎んでご冥福をお祈りします。

合掌

法政大学探検部OB 浅野哲哉 拝

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