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「峻烈な出会い。そして別れ」 酒向みゆき夫人の命日に寄せて

酒向雄豪氏との出会い

 青白い閃光を帯びた矢を放つ悪魔ラーヴァナが雄叫びをあげ、不可思議な仕様の戦闘機から次々に放たれた矢は、ナパーム弾が炸裂したように爆発し、激烈な衝撃波と炎と煙が大地に轟く。ちりぢりに逃げ惑う無数の猿の軍団。そこに上空の彼方から疾風のごとく現れたのは、飛翔するハヌマーンの背中に乗ったラーマ・・・
「いったい、何なんだこれは!」
 1999年の正月、夫婦で7年ぶりにインドに行った。南インドはケーララ地方のリゾート地ヴァルカラ。今まで泊まったことがなかった5星ホテルの部屋で、テレビをボーと見ていたら、突然、まるで日本のアニメみたいなスピード感溢れる戦闘シーンがスポットで1分ほど放映されて度肝を抜かれた。実にそれこそが、酒向雄豪氏の日印共作長篇アニメーション「ラーマーヤナ/ラーマ王子伝説」だったのだ。帰国後の数ヶ月間、インド関連の知人をしらみつぶしに当たって、ようやく、長年インド映画に関わってきた松岡環さんから酒向氏の連絡先を入手。当時はインターネットもまだパソコン通信に毛がはえた程度の段階で、僕がインドで観た映像の生みの親が、酒向雄豪氏であることを理解するまで相当な時間がかかってしまった。

在りし日の酒向雄豪氏 Mr.YUGO SAKO

 1999年9月15日「敬老の日」、ついに我が師に出会うことができた!夕焼けがとても美しかった宵の口、15分ほど遅れてしまったが、今はなき渋谷パンテオン前で首尾良く酒向氏と出会えた。さっそくタクシーで南青山の御自宅を訪問。行きすがら、藤原新也とは親しいとか、いきなりすごいお話を聞く。
 南青山・三徳ビル4階の扉を開くと、そこに純インド風のアートな空間がそのまま居室となっていた。かつて『文藝春秋』の編集者だったみゆき夫人も大歓迎して下さった。酒向さんの仕事=映画の話をいろいろ伺った。今年の正月にインドでちらっと見たアニメは、やはり「ラーマーヤナ/ラーマ王子伝説」だった。酒向さんは企画・製作・総監督を努めて約10年がかりで完成したという。「日本では認められなくてもよい。あの神話を世界にアピールすることの方が大切だ」という言葉の端々になんとも言えない風格がたなびいている。一瞬で尊敬してしまった。拙著「インドを食べる」もイラストがたいへん好評で、特にみゆき夫人が硬く握手を求めてきて下さった。夫人が経営する「エークルピー」という素敵なお店には、業界の人がたくさん来るので、「是非、浅野さんの展示コーナーを設けて協力したい」と熱心におっしゃって下さった。ありがたい限りだ。

「エークルピー」のロゴと看板(開店は1998年6月8日)


 酒向氏は9月末にこの映画作品の件でアメリカに行き、交渉が成功すれば逆輸入することになるかも、とおっしゃっていた。2作目の「クリシュナ」のことも聞いた。インドで最も人気のあるクリシュナ神の物語を、細密画の世界でそれも全編CGでやるとか、すごい、夢のような企画だ。酒向氏は「話が決まったら君にも是非手伝ってもらいたい」と言っていた。なにか、本当に夢みたいだ。インド世界の日本における偉大な「巨匠」と出会えることができたのだ。同時に、長い間、探し求めていた人生の「師匠」に出会ったような気がする。結局、午前2時まで奥さんと話し込んでしまい、そのままソファで横になった。
 自分が生まれた日赤病院、そして生みの母親が亡くなった病院のすぐそばで、「師匠」に出会った。きっと母が巡り合わせてくれたのだ。9月にしてはやけに蒸し暑い夜、開け放しの外気を呼吸しながら、しみじみとした気分になった。


「Salon de Sako」での薔薇と酒の日々

 こうして、酒向さんとのお付合いが始まった。程なくして、英語の海賊版のVHSビデオをお借りして、初めて全編135分を観た。
 一瞬、息を飲むほどの美しさ!!背景はまさに「もののけ姫」そのもの。インドの自然が忠実に描かれていた。小動物の可愛らしさは「トトロ」以上!神話に忠実なので、若干進行が緩やかなものの、戦闘シーンは迫力満点!数々の飛翔シーンは「風の谷のナウシカ」や「天空の城ラピュタ」を彷彿とさせた。なにせ、セル画数8万5千枚(正確には12万数千枚!)。おまけに近年ブレークしたインド映画風のミュージカルシーンもしっかり入っていて、感動のあまり思わず涙がにじんでしまった。まさに超一流のアニメ作品なのだった。
 しかし、「ラーマーヤナ/ラーマ王子伝説」は、公開当時の日本とインドの社会情勢をはじめ、諸々の諸事情によって、配給の機会を奪われてしまったという。そのあたりの事情については本連載において後述するが、酒向さんにお会いする度に、その不屈の精神と向学心、あらゆる事態に真摯に取り組む姿、そして、一流の気品漂う酔いどれ話に心底惚れ込んでしまう日々が続いた。長年、酒向さんの通訳を務めていたYともこの頃知り合い、その冷静沈着かつ教養と知性溢れる詳細な解説によって、よいどれ話は深奥な輝きを放つのだった。
 約1年後の2000年8月、インターネット上で知り合った画家・装丁家の矢萩多聞君が日印ポータルサイトIndo.toを開設。その流れに沿って、多聞君と濃厚なメールのやり取りが続き、南インドの女性たちに古代から伝わる家庭芸術=吉祥文様「コーラム」のフラッシュ・アニメーションをパソコンで精力的に作成。知られざるコーラムを日本に知らしめることを目的に「KOLAM PROJECT」を展開することになる。
 酒向さんの教え「面白いと思った事はどんどんやって前に進め!」に従って、2003年6月、「エークルピー」でコーラム・アニメーション&口琴イベントを開催する。

2003年6月7日(土)「エークルピー」でコーラム・アニメーション&口琴イベントを開催した時のポスター(作成:矢萩多聞)「JUGALBANDI」とは「合奏」の意。

 その頃には、多聞君もすっかり酒向さんの魔力に嵌まり込み、夢と知性と刺激に溢れた酔いどれの日々を過ごすことになる。
 南青山・三徳ビル4階の酒向雄豪「亭」は、1970年代から通称「Salon de Sako」と呼ばれ、酒向さんの旧知の友人である平林 猛氏によると「多くのミュージシャンや作家、写真家、デザイナー、詩人、画家、役者、暗黒舞踏家など文化人や時代と向き合って生きていた若者たちが、夜な夜な出没し、『文藝春秋』の編集者であった夫人の西村みゆきマダムと「薔薇と酒の日々」を送り続け、全てが「問題なし」=「No Problem」の世界、悠久の時が流れるインドへと向かっていた」という。何の因果か、僕も多聞君もまさにインドの神様から誘われるように「Salon de Sako」の住人になってしまったのである。

「Salon de Sako」には、インド側の製作陣もしばしば訪れた(1984年頃)


みゆき夫人の急逝・・・酒向さん、脳梗塞発症!

 しかし、魅惑的な「薔薇と酒の日々」は長く続かなかった。「エークルピー」を切り盛りしつつ、いつも最高に美味しい手料理をご馳走してくれたみゆき夫人の体調が悪化。なんと悪性リンパ腫を患い、2005年10月31日に急逝してしまう。亡くなる日の前日、みゆき夫人は、給与支払いの確認をYに依頼し、「じゃ、またね」と挨拶したのが最後となった。
 翌日の早朝、Yはふと目が覚めた。瞑想しようと線香に火をつけたものの、何か気になってずっと外を眺めていた。6時半頃、突然かかってきた電話の向こうから「みゆき、亡くなったよ」と厳かな酒向さんの一言が。
 「えええええええええええええええええええ!!」という心の絶叫がYの身体内に木霊した。凛とした才気あふれる大和撫子が、突如としてこの世から旅立った・・・日々、日赤病院に通いつめて看病していた酒向さんの胸中には、計り知れない悲哀が渦巻いていたことだろう。
 最期まで気丈に振る舞い、夫である雄豪を気遣っていたみゆき夫人は、翌2006年4月24日の午前、インド・ガンジス河の聖地リシケシにて法要が執り行われ、聖なるガンガに遺灰が流された。彼女が大好きだったカサブランカの花弁とともに・・・

在りし日の酒向みゆきさん。モーリシャスにて。
酒向夫妻の間にインド側のラーム・モハン監督が佇む(ムンバイにて)

 最愛の伴侶を失った酒向さんは、2007年夏、カンボジアの旅へ。プノンペンの収容所跡やキリングフィールドを訪れた。ポル・ポトの残虐な殺人と拷問。それ見た酒向さんは「人間が人間に下す最悪な虐待だ」と言って地面に座り込み、気分が悪くなった。その夜中に激烈な腹痛を訴え、腸閉塞を発症。バンコクで入院し手術を受けた。
 2008年1月、最後のインド訪問を終えたその年の7月に、突然、脳梗塞を発症する。玄関の外で倒れていた酒向さんに遭遇したYは、床に倒れ、言葉にならない仕草を必死で繰り返す姿を見て「何かの冗談でしょ」と動転しつつ、すぐに救急車を呼び、以後、天涯孤独だった酒向さんの「身内」としてあらゆる医療と介護の橋渡し役を遂行することとなる。

「誰もが消えてしまった」・・・そこに現れた天才シタール奏者

 「誰もが消えてしまった」・・・かつて、多くの人々を魅了しつつ磁力のごとく引き寄せていた酒向さんが脳梗塞で倒れ、重度の失語症を患った時、介護の担い手は誰ひとりいなかった。
 しかし、そこに救世主が現れた。旧友である有名シタール奏者チャンドラカント・サルデーシュムク氏だ。
チャンドラカント氏は、元々アーユルヴェーダの家系に生まれ、医師になるはずが、天才的な才能があり、4歳からシタールを始めてまだ幼児のころ、世界的シタール奏者ラビ・シャンカールの要請で彼の弟子となり、12年間、ラビ・シャンカールの家に住み、彼と彼の妻アンナプルナ・デビからシタールを学んだ人物である。

Pt.Chandrakant Sardeshmukh in Shizuoka 1991


 彼はYに言った。
「あなたは酒向氏に映画の仕事で関わってきた。倒れた今こそ、酒向さんを助ける必要がある。これは君にとってよい功徳だよ。しかし、ここで逃げ出したら悪徳だ。だから酒向さんを助けなければいけない。やりなさい、私もやるから!」
「私もやるから!」という言葉にYは心打たれた。その言葉のとおり、彼は酒向さんに音楽療法の個人セッションを1年にわたり30回余り施した。しかも、決してお金をとらなかった。Yがその理由を聞くと、チャンドラカント氏はこう言った。
「1991年に来日したとき、僕は酒向さんに会うために、「ラーマーヤナ」制作まっ最中の広尾スタジオを訪問した。アーティスト同士、お互いにすぐに好きになった。酒向さんは僕の最初のシタールコンサートにも来てくれた。広尾スタジオでインドの衣装を着て撮影されたこと、これに対して、酒向さんは「ものすごく申し訳ない、君のような天才音楽家には、音楽で仕事をお願いしなければならないのに、アニメーターのためのモデルをお願いしてしまった」と詫びたんだ。
 それから、数か月後に僕のコンサートを録音したカセットテープを200本作って僕にくれたんだ。酒向さんは僕にこういった。
「君は天才的な音楽家だ。しかし、日本ではシタールもインド古典音楽もあまり知られていない。これからは君は名刺代わりにこのテープを会う人たちに配ってプロモーションしなさい」と。
 こんなふうに僕に接してくれた日本人は酒向さんだけだよ。僕はずっと彼のことを尊敬しているし、大好きなんだ。お互い酒飲みだし・・・酒向さんと飲んだのは楽しかったねえ・・それにそのすぐあと僕は結婚した。そしたら、酒向さんは僕たちにハネムーン旅行をプレゼントしてくれようとした。実際には、いろいろな都合でその招待を受けることはできなかったけれど・・・
 僕たちは本当に心の底からつながっているし、強い絆を感じる。日本に来日してすぐに僕を信用してつきあってくれた。お世話になっているし恩に感じている。だから今こそ、僕の音楽療法でどれだけ酒向さんを助けてあげられるか、できる限りのことをしたいし、音楽療法もどれだけのことができるか試してもみたいんだ」

堅い絆で結ばれた酒向雄豪氏とDr.チャンドラカント・サルデーシュムク氏

こうして、チャンドラカント氏の音楽療法を施された酒向さんの失語症は、なんと90%回復した。この奇跡はまだあまり語られていない。

 同時に、彼が主宰していた「ダルシャナム」(ダルシャナム と はサンスクリット語で見ること、もしくは何か隠された深淵なものを看破するという意味)のメンバーも介護に全面的に協力してくれた。その活動のメインはチャンドラカント氏のシタールの音楽事務所。もうひとつは彼の家系のアーユルヴェーダの広報活動。この活動に関わり、現在も日本で「サトヴィック」という会社で、チャンドラカントさんの兄:ドクター・サダーナンダ氏を招聘するなど、アーユルヴェーダ推進活動をしている佐藤真紀子さんがさらなる助け船を出してくれた。

 酒向さんの一人介護で、Yが倒れそうになっていたとき、彼女からメールがあり、
「介護はひとりでやってはいけない、山岸美智子さんに電話してください」
と電話番号を知らせてくれた。それで山岸美智子さんと知り合い、全面的に助けていただくことになったという。
 山岸美智子さんは、酒向さんの介護食を作り、リハビリ病院の通院の付き添い、週に2~3回訪問して介護に尽くしてくれた。他にも古山みどりさん、武田和子さん、木村吉寛くん。もちろん、チャンドラカント氏の奥様のプージャさんが支援してくれた。
 しかし、信じられないことに、2011年8月15日、チャンドラカント氏は交通事故で突然他界してしまう。さらに、彼の楽器をつくっていた親友もその3日後に交通事故で他界。
 チャンドラカント氏の父は聖者で、インドのプネー近くのワゴリにアーユルヴェーダの治療センター大学を作ったが、チャンドラカント氏は、誕生日も命日も父とまったく同じ。この出来事はあまりにも不思議で、父上に彼は呼ばれたのだと、関係者は皆、理解している。
 しかも、酒向さんの介護に全力を尽くしてくれた山岸美智子さん。なんと彼女も2015年に癌で他界してしまうのである。

酒向さん、逝く。

 不可思議な死の連鎖が続くなか、ついに酒向さんにも最期の時が訪れる。
2012年、4月24日午後2時47分。日本とインド文明の橋渡しを通して「未曾有の業績」を遺した信念の鬼才:酒向雄豪は、静かにこの世を去った。享年84歳。
 奇しくも、最愛の伴侶みゆき夫人の遺灰が聖なるガンガに流されてから、きっかり6年後に、シヴァ神のお迎えがきたのである。

2018年、10月31日。みゆき夫人の命日に記す。
浅野哲哉 拝

若き日の二人

追伸:以下の文章は、酒向さんとのお付き合いでは、僕よりずっとずっと先輩の平林 猛氏が記したものである。秀逸な追悼文なので僭越ながら掲載させて頂きました。

『追悼!酒向雄豪』 平林 猛

 日印国交樹立60周年を祝うかのように、春爛漫、八重桜が咲き誇る今年4月、インドに生涯を捧げたひとりの男がガンジスの畔ベナレスに召され、黄泉の国に旅だった。
その男の名は酒向雄豪。享年84。
 酒向雄豪氏は昭和3年、岐阜の寺に生まれた。大学卒業と同時にNHKに入り、多くのドキュメンタリー作品を創り出していった。その後、生来の反体制的な思考と天の邪鬼の性格は規制の強い社会を嫌い、実存主義のサルトルとボーヴィアール気どりで、青山に多くのミュージシャンや作家、写真家、デザイナー、詩人、画家、役者、暗黒舞踏家など文化人や時代と向き合って生きていた若者たちが、夜な夜な出没する「Salon de Sako」を開き、『文藝春秋』の編集者であった夫人の西村みゆきマダムと「薔薇と酒の日々」を送り続け、全てが「問題なし」、「No Problem」の世界、悠久の時が流れるインドへと向かっていた。
  小生がそんな危険な匂いのする酒向雄豪氏と遭遇したのは、今から33年前の事である。その頃、イランでは革命がおこり、アメリカ大使館が占拠され一触即発の状況であった。一方アメリカではジェーン・フォンダ主演の原発事故をテーマにした映画「チャイナ・シンドローム」が公開されたていた。その12日後、暗示されたかのようにスリーマイル島でメルトダウンが発生、なにか嫌な匂いのする時代を迎えていた。
 そんな時代に向け、メッセージを送るかのように、氏はシルクロードをテーマにしたレコードを制作した。「サンサーラ(Sansara)/地球の子供たち」(1979年日本コロンビア)である。


「サンサーラ(Sansara)/地球の子供たち」CDジャケット 1979年リリース


酒向雄豪氏を深く知ったのは、氏がこのレコードの作詞とプロデューサーを担当したころである。推薦文は作家の五木寛之氏と音楽評論家の中村とうよう氏。ジャケットは小山田二郎氏と豪華なメンバーであった。
 その後、酒向雄豪氏との付き合いは、その後の氏のライフワークとなるインドの長編叙事詩「ラーマーヤナ/ラーマ王子伝説」(日本ラーマーヤナフイルム制作/監督酒向雄豪/佐々木皓一/ラーム・モハン/制作吉居憲治)のアニメ化プロジェクトに深い関係を持ったからである。
 完成まで10数年を要したが、このプロジェクトに係った者たちは全て死屍累々、地獄の血の池の中での苦行に突き落とされた。しかし、そんなことにはどこ吹く風と、酒向雄豪氏は10数年の歳月を架け「ラーマーヤナ」の完成に心血を注ぎ、その姿は阿修羅の如くであった。
 酒向雄豪氏には苦い思い出は数々あるが、氏には何回かインドに同行して頂いたばかりか、青山の「Salon de Sako」に転がり込み、論壇風発、激論、酒を痛飲しながら、インドに無知であった小生たちにインドの奥深い凄さと、凄まじいエネルギーを体験させて頂き、今では夢のまた夢、深く感謝している。
稀代の怪人、はたまた「No Problem」酒向雄豪氏に献杯。

平成24年7月7日 
日印国交樹立60周年記念 追悼!酒向雄豪
「朝まで!ナマステ・インド」
運営委員会代表 平林 猛



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