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僕の世界と妻の世界――「思考」にかぶいた人間の、「感覚」についての「思考」(1099文字)

僕は、合理的な判断の積み重ねによって生きている。
事物や人物を理屈で捉えて認識しているし、細部にとらわれずに全体を俯瞰し、構造的に事態を把握しながら対策を立てる傾向にある。

しかるに妻は、好きか嫌いか、快か不快か、という基準を重視して生きているようで。
いちいちの部分を見て全体を見ず、考えることによってではなく感じることによって対象を捉えがちだ。
つまり、感情機能や感覚機能を優先的に働かせながら生きている。

従軍する兵士や、事業計画について論じ合う企業戦士にとっては、確かに、感情や感覚は邪魔物であるかもしれない。
けれども、例えば野戦病院の看護士は、合理的な判断よりも、感情や感覚を優位に働かせながらケアに当たっているのではなかろうか?
「使えなくなった兵士」の痛みや苦しみに寄り添えるのは、合理的な問題解決力ではなく、個別の魂を慈しみ得る共感力であろうかと思われる。

だなんていちいち理屈で考えなきゃわからないあたりが、いかにも思考にかぶき過ぎている僕であるのだな。

妻なら、傷付いた兵士を見た瞬間に、考えをめぐらすまでもなく「かわいそう!」と感じるのであろう。

『あなたは世界を、言葉や理屈に置き換えて認識している。ありのままの世界を感じていない。だから論理的には正しい判断ができても、その正しさはリアルじゃなくて、ほんとうのホンモノから少しだけずれた正しさなんだと思う――』
というようなことを妻は僕に言いたいんじゃないかと「僕は推論する」。
そう、そんなふうにいちいち妻は論理的に語ったりはしない。
ただ一言「なんか違う!」と言うだけだ。


妻にとっては(あるいは僕以外のたいていの誰にとっても)、考えるまでもなく世界は「具象」であり、「抽象」ではないのだ。

事物や人物を構造的に、抽象的に、ある種のパターンとして認識するやり方は効率的な問題解決に資するが、これをやり過ぎてしまうと、たぶん細部が犠牲になるし、事物や人物からみずみずしさみたいなものが捨象されてしまうのだと思う。

脳の、新しくできた部分ばかりを使って生きていると、古くからある脳が担当する感覚的な機能が衰えて、事物や人物を理屈でしか捉えられない、AIもどきみたいな人間が出来上がっちゃうのかもしれない。

夕焼け空は赤いのだ。

THE BLUE HEARTSの『夕暮れ』の歌詞にもそうある!

考えるまでもなく、ただ、赤いのだ。

血が、ただ、赤いように。

感情機能や感覚機能を鍛え直し、思考機能や直観機能とバランスさせてゆかなくてはいけない。
ということを、僕は、かなしいかな、感覚的にではなく直観的にだけど、確かに捉えた。

まずは、なにか美味しいものでも食べよう!

文庫本を買わせていただきます😀!