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広島東洋カープ元投手 清川栄治さん

こんにちは。中小企業特化、経営・マーケティングコンサルタントの新井 庸支です。

5月5日、広島東洋カープの元投手、清川栄治さんが亡くなられたというニュースがありました。謹んでご冥福をお祈りいたします。

今日は仕事の話ではなく、清川さんが活躍していた当時の広島の話をさせてください。

清川さんがいた時代の広島東洋カープは最高でした

清川さんは1983年広島東洋カープにドラフト外で入団。左のサイドスロー、中継ぎ一筋でプロ野球で活躍した方です。当時のプロ野球は、できることならば先発完投が良しとされ、最後まで投げられない場合はリリーフ投手が出てくるという時代だったと記憶しています。今では何人もの投手が継投するのは当たり前ですが、当時は中継ぎというポジションは今のように確立していなかったと思います。清川さんは、そんな中で中継ぎ投手というポジションを確立させた功労者ではないかと思います。29者連続で出塁させないとか、登板100試合を超えても勝利したことがなかったという珍記録は、まさにいぶし銀の人と言っても良いのではないでしょうか。

当時の広島の投手は、それは凄いメンバーでした。エースの3本柱。北別府、大野、川口。さらに抑えの津田恒実。他にも永冨、金石、紀藤などもいました。エースの3本柱は、どんなチーム相手でも完投完封できるタイプ、どこのチームにいってもエースでいられるタイプ。さらに彼らが少し疲れたら、豪速球の津田がいる。このメンバーの中では、試合に出るのも容易なことではなかったと思います。その中で、中継ぎという確固たる存在感を出した清川さんは偉大でした。

当時の広島は個性的な人が多かったと思います。プレーも玄人好みの選手が多かったように思います。正田や山崎の他、三振かホームランかのランス、鉄人衣笠、NPB史上はじめて背番号0をつけた長嶋清幸。

今とは全く違い、巨人や西武が華やかな存在感と強さを誇る中、ひとりひとり個性があり、泥臭く、凄みのあるプレーをしていた当時の広島には大きな魅力がありました。

ふと思い返してみると、今、中小企業に特化した仕事をさせていただいる背景には、こうした昔の感動や記憶がなにかしら影響しているのかもしれません。清川さんがいた広島が大好きだったことと、今、小粒でもきらりとひかる個性を持つ中小企業に出会い、携わらせていくことで喜びを感じることは、どこか根底で通じるものがあるのかもしれません。

清川さん、ありがとうございました。安らかにお休みください。


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