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”Black Lives Matter”と”夜の街”にみるHigh Context Cultureのリスク

日経新聞の記事に見る「は」と「も」

 全米に拡がるBlack Lives Matterの運動が、大統領選の結果も左右しそうな気配が見えてきた。筆者は日経新聞しか購読しておらず、多くのメディアを並列的に検証することはできないが、少なくとも6月2日付け日経の、『米抗議デモ 140都市に拡大』という記事では、スローガンの説明を、”黒人の命は大切だ(Black lives matter)!”と記載していた。それが、6月14日の、『東京で差別抗議デモ千人超 「対岸の火事ではない」』という記事では、”「BLACK LIVES MATTER(黒人の命も大事だ)」などと書かれた段ボールを掲げ”とあり、「は」が「も」に変わっていたのである。それ以降、注意してみたわけではないが、7月10日の『「Black Lives Matter」トランプタワー前に』という記事内では、”「ブラック・ライブズ・マター(BLM=黒人の命は大切だ)」の文字が描かれた”と再び「は」に戻っていた。このあたりの変化は、今でも日経電子版を検索すると確認することが出来る。

 そもそも、この「は」なのか「も」なのか、に関心を抱いたのは、たまたまNHKのニュースウオッチ9を見たときだった。ちょうど全米に拡がる運動をレポートする中で、和久田キャスターが、”ブラック・ライブズ・マター、黒人の命も大切だ、と書いたプラカードを掲げ、、”と解説しているのを聞いたことによる。 「黒人の命は大切」 と聞く場合と、「黒人の命も大切」 と聞く場合とでは、私自身の受け取る印象はかなり違ったからである。言うまでもなく、後者の場合は、「黒人の命が軽んじられている現状があるが、黒人の命も、他の人の命同様大切なんだ」という文脈が感じられる。運動の起こる切っ掛けとなった事件を思うに、確かにその趣旨があることは理解できるが、アメリカ人はこの3文字のスローガンにその文脈を込めているのだろうかと疑問になった。なぜならば、英語は典型的なLow Context languageだからであり、All Lives Matterというスローガンも運動の中で見かけるからである。もし、大元のメッセージ発信者が意図していない意味を翻訳時に付け加えたとすると、それは曲解になりかねない

 私同様、「は」か「も」かについて気になった人が居るのではないかと考え調べてみると、6月18日の現代メディアに東京大学矢口教授の"Black Lives Matter"どう日本語に訳すかという本質的な問い」という記事を見つけた。まさに筆者が気にした 「は」か「も」のどちらか という問題を非常に詳細に分析している。矢口教授によれば、「主要メディアについては、NHKと朝日新聞が「黒人の命も大切」としており、読売、毎日、日経、産経新聞は「黒人の命は大切」と訳しているようだ(6月17日時点)」とのことである。Livesの示す意味が命だけではない点とか、MatterがなぜImportantではないのか、等々、非常にわかりやすく解説してくれているが、「は」なのか「も」なのかについては、そもそもオリジナルのBlack Lives Matterには「も」に相当する言葉は存在しないことを確認したうえで、朝日新聞などがあえて「は」を「も」としているのは、運動を観察したうえで、単に言葉を置き換えるのではなく、読み手が理解できるような文脈に言語を書き換える作業をした、との説明であった。矢口教授の解説により私自身の疑問は氷解したのだが、果たしてこのような「書き換え」は望ましいことなのだろうか?


新聞やTVニュースの責務

 『客観的事実』というものがあり得るのか、という本質的な議論はあるものの、新聞記事やNHK7時のニュースのようなニュース番組では、正確な事実を報道することが大原則であり、メディア自身もそのように主張する。一方で、同じ新聞でも論説記事やコラムなどでは筆者の主観に基づく論考が述べられ、ニュースショーと呼ばれる、ゲストがコメントしたり、キャスター自身の意見を述べるTV番組では、事実に対する意見・解釈が述べられる。この2つが曖昧になっている事実はあるものの、本来は明確に異なる定義づけをされているはずだ。
 新聞各紙に独自の色があるのは公知の事実であり、読者もその前提で新聞を読んだり、或いは購読する新聞の取捨選択をする。朝日や毎日は革新的な立場で報道するのに対し、読売や産経は保守的である、というのは「政治的な色」であり、両者が異なる視点で記事を書いたり論説をするのは、ある種言葉は悪いがそれぞれの「芸風」である。社説でその「芸風」を強く押し出し、ワイドショーでコメンテーターのポジショントークがしばしば極論に走るのは、非常にわかりやすい「例」である。しかし、事実を報道すると思われているニュース記事・番組の中で、Low Context languageの文章を「わかりやすく文脈をつけて」翻訳してしまうと、場合によってはそれが人々の思考・判断を「誘導」するリスクがあるのではないだろうか。ネットでしばしば見られる”出所のわからないフェークニュース”とは全く異なる、印象操作リスクである。


High Context languageである日本語の課題

 ここ数ヶ月我々の生活を脅かしている新型コロナウイルスの問題でも、最近焦点を浴びているクラスターとして「接待をともなう夜の街」という言葉が多用されている。High Context languageである日本語ならではの表現ではないかと考えるが、キャバレーであったり、ホストクラブであったり、或いは風俗店であったり、個別の業種を特定することなく、多くの人々が文脈を読み「一定の共通認識」を共有している。もしこれがLow Context languageを使う国々の人々であれば、「夜の街って何のことだ?」となり、個別の業種を一つ一つ具体的に特定することが必要になろう。仮にLow Context 文化の国で、夜の街に相当する注意対象の定義の中に居酒屋が含まれなかった場合、居酒屋が通常営業することには何の問題も無いと理解される。しかし、日本語の「夜の街」の場合には、夜間営業する繁華街にある店であれば、どのような業種であれ、陽性者が発見されれば「夜の街に注意しろと警告をだしたはずだ」、という社会の非難につながる。逆に、自分が行く比較的駅から遠い居酒屋は「夜の街」には含まれない、という自身に都合の良い解釈(言い訳)も成立する。
 一方で、「3密を避ける」という言葉は相対的にLow Contextであった。空間的距離や密度は計測可能であり、スーパーでもレジに並ぶ場所に具体的に一定間隔での線が引かれ、電車の中でも大声で話す人はいなくなった。そこには解釈による曖昧さはなく、危機管理対策には具体性が有効であることの一つの査証であると考えることも出来る。


 全く独立する2つのケースで、High Context Cultureに慣れている日本人とHigh Context Languageである日本語の問題点を例示した。High Context CultureとLow Context Cultureのどちらが良いという議論ではもちろんないが、High Context Cultureにどっぷり浸かっている我々日本人は、曖昧な表現から文脈を読み取るリスクを再考すべきではないだろうか。罰則を伴うロックダウンなどの厳しい制限ルールを導入せずとも、感染被害の規模を低い規模に抑えることができたのは、日本社会のHigh Context Cultureの良い面がでたと考えることができる。一方で、「黒人の命も重要だ」という文脈付き文章をわかりやすい翻訳として受け入れてしまう、という負の側面もある。
 好むと好まざるとに関わらず世界の国々と関わりながら生きてゆかねばならない時代であるがゆえに、High Context Cultureの良い面を維持しつつも、明確な、曖昧ではないコミュニケーション、論理的な意思決定、などの特徴があるLow Context Cultureの人々の考え方、コミュニケーションの仕方を学ぶことも必要ではないだろうか。


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