当たり前ができないと言うこと
当たり前のことができない。
私もその1人です。しょっちゅうミスをやらかします。
そして実は職場にも注意欠陥・多動性障害(ADHD)の同僚がいました。
そして彼を受け入れるべきだという主張を会社として戦ってきました。
そのための理論や理屈もそろえたものの…
それについて私の意見をつらつらと書いていきます。
当たり前ができないのはその人のせいではない
当たり前ができないのはその人のせいではありません。
当たり前の事が出来ないというのはそのシステムに問題があります。
当たり前な事ができないのはその人の能力のせいではなく、むしろコスパのためのシステムに切り捨てられたためです。
コスパの被害者といってもいいかもしれません。
同じような人間を集めてその人達に合うような環境を作ると、1人1人対応するよりコスパがいい。
そうしてできた環境になじめないのなら切り捨ててしまえばいい。
そういうコスパ重視の考えからきます。
たとえば左利きについて考えましょう。
左利きが人工の10%いるから改札の10個に1個は左利き用にする。
これでは改札が混雑する。次通る改札が左か右かわからないためです。
そのために全部右利き用に合わせる。
そうすると左利きは不便だけどこれに合わせるしか無いわけです。
改札は人をいかに多く通すかというコスパのために左利きは不便を強いられています。
「当たり前」を作るのは多数派のひとで、その多くの人にとって都合のいいものを「当たり前」と呼ぶわけです。
多くの人になれなかった人は不利なスタートを切らなければいけません。
バスケのようなスポーツなら、身長が高いのが有利なのはわかっているのだから低身長なら選ばなければいいと言えますが
生まれ持った物に関してはそうも言えません。
当たり前、常識、マナー、ルールというものは、その人達がみんなで合意したものになります。
正しいからではなく、みんなが都合がいいものを常識と呼ぼう!という事です。
そこで哲学者ジョン・ロールズは「無知のヴェール」というものを提唱しました。
簡単に言えば、ルールを決めるときは自分の状態がまったくわからない状態、つまり無知というヴェールで覆われている状態でルールを考えようという物。
つまり、誰にも有利にも不利にもならない社会のルールを考える方法をロールズは提唱しました。
「無知のヴェール」に覆われたという条件であなたが新しいスポーツのルールを考えるとしましょう。
あなたは身長がどれぐらいか、性別は何か、身体障害はあるか、裕福な家か、といったことはわからない状態で新しいルールを考えるということです。
あなたは何も自分自身にとってわからないのですから
万が一貧乏な家に生まれたとしたら困るので高価なラケットが必要で無いルールにしよう
万が一女性に生まれてるかもしれないから、男女で階級をわけよう
そう考えるはずです。
このロールズの「無知のヴェール」という方法で考えてみるといまの常識やルールは大変不公平なものに感じます。
当たり前ができる人というのはいわばほぼあたりのダーツを投げるようなもの。
当たり前ができないというのは、その人の能力ではなく、単純に運がわるかっただけという他なりません。
当たり前ができるのは偉いとか、できないのはおかしいとかではなく、単純に確率的にでてきてしまいます。
しかしこんな意見もあるでしょう。
ロールズはあくまで社会に関してのルールの決め方。
仕事は適材適所で、その能力を発揮できる環境と人を集めた方がいいじゃ無いか!みんなで同じ方向を向いて会社を引っ張る方がいいはず!
でも本当にそうでしょうか?
同じタイプの集団は弱点が一緒
(以前の記事と重複します)
たしかに、仕事は適材適所で、その能力を発揮できる環境と人を集めた方がいいように思えます。
仕事はみんなで同じ方向を向いて石を引っ張るようなもの。
5人より10人で、ばらばらではなく同じ方向に息を合わせて石を引っ張った方が早く前に進みます。
そこで、あっちの方向に石を運ぼうと決めたのに、引っ張っている振りをするだけの人、全然違う方向に引っ張る人が居たらどうでしょう。
迷惑をかけるな!空気が読め!足を引っ張るな!
しまいには「出て行け!」という気持ちになるかもしれません。
会社も石を引っ張るのと同じようなものだという人も居ます。
例えば、精密機械を扱う工場では、几帳面な人を雇い、手先の器用な人間の集団を作ろうとします。
おなじ目標にむかって、同じような能力をもった人達の方が結果が出ます。
なのに、すぐにミスをする、しょっちゅう工程を忘れるような人が居たらどうでしょう?
辞めてしまえ!と思うかもしれません。
たしかにそういう人を辞めさせれば、会社は足並みそろえて進むわけですからものすごい力と速度が出ます。
しかし、同じような人ばかりの集団なので、苦手な部分も一緒です。
その苦手分野にぶつかると全員でこけてしまいます。
ポケモンで言えば、「今から力仕事をやるぞ!」と言い、全員格闘タイプのポケモンでそろえるようなものです。
建物の解体の仕事だと聞いていたから格闘タイプを集めたのに、廃病院でゴーストがでてまったく技が通用しない…というようなことが起きます。
愛と勇気のある優秀なアンパンマンをそろえても雨が降ったらおわりなのです。
同じタイプの集団は弱点も一緒なので、苦手分野とぶつかるとまったく力を発揮せず、場合によっては集団そのものが崩壊してしまいます。
当たり前とか常識に自然に適応できる人ばかりの集団になると、万が一の時にみんなでこけてしまいます。
違うタイプの人が居る方が長い目で見ると非常に効果的なのです。
今度はこんな反論ができるでしょう。
違うタイプでいいのなら、他の能力がある人材を雇えば良くて、なんの能力も無いやつはいらないな。
本当にそうでしょうか?
能力とは目に見えているものだけ
世の中には「○○力」といってものがたくさんあります。
持久力、記憶力など。
そういった「○○力」という言葉はそもそもかなりあやふやなものです。
人間には本来、数え入れないほどの能力が存在します。
しかし、それを「○○力」とするためにはなにかしら基準が必要です。
持久力ならタイムとか、記憶力ならテストとか。
つまり、人間がそもそも量れる物しか「○○力」にはならないんです。
例えば炭鉱で働く人達には「スカブラ」という役の人がいました。
「スカブラ」の仕事は、石炭を掘らずに「くだらない話をしたり、お茶を出したりしていること」
10人チームの内、1人はただおしゃべりするだけの人がいるのです。
「スカブラ」を仕事での能力としたらゼロでしょう。その日に掘った石炭の量はゼロですから。
しかし、10人で石炭を掘るより、9人で掘り1人がおしゃべりするほうが生産率が高かったのです。
ゲームでいうなら仲間の攻撃力を上げる魔法をつかえる人という扱いです。
10人で攻撃するより、1人が仲間の攻撃力をあげる魔法を発動して9人で攻撃する方がダメージを与えられます。
「スカブラ」は生産量ゼロなので能力はゼロです。
でも全体の生産性をあげる力を持っています。
こういった目に見えない力というものが複数存在するわけです。
それを目に見えやすい数字にしやすいものだけで人間をはかって使えるか使えないか判断するのはどうでしょう?
変人は確変をもたらす
当たり前ができない人。それは能力がないと言われます。
しかしその能力は目に見えない物もあるので、見える物だけで使える仕え内を判断するのはどうか?という話をしました。
たとえば偏差値なんかで言うと、20~30ぐらいの人は一般的に学力が低いといわれます。
しかしそれはあくまでテストという物差しではかるなら低い数字になるというだけの話です。
何が言いたいかと言えば。
人間は能力の高い人と低い人どちらも変人に見えてしまうということです。
簡単に言えば偏差値20と80の人。テストならどちらが上かはわかります。
しかし、多くの見えない物まで求められる社会や会社では、20も80も同じに見えてしまうのです。
つまり、使えない人材を切り捨てれば全員の平均値は上がると思い込んでいますが
実際はそのひとは凡人には量れないだけでめちゃくちゃ貢献しているということがあるのです。
ゴッホが生きている内に評価されず絵がほぼ売れなかったり、スティーブジョブズが問題行動が多いとアップルを追放されたり。
隠れた能力がある人や能力が高すぎる人は評価できないので使えない人というレッテルをはられてしまうのです。
つまり使えない人を切り捨てるのは、同時に会社に大きく貢献する人材を切り捨てる可能性もあるのです。
まとめ
当たり前ができないと言うこと。
それはその人の能力が無いわけでは無い。
当たり前はこうだと設定したのは全体であってその人個人では無いから。
そもそも能力というもの自体が目に見える物だけではかっているので、その人を評価するには不完全。
そして当たり前ができないという変人はみんなの弱点をカバーし、大きな確変をもたらす可能性がある。
当たり前ができない個人としては、自分が求められる環境を探すのも1つの手。
自分の能力が目に見えるような環境があるかもしれない。自分の活きる環境を探すのがよい。
当たり前ができない人がいる集団としては、その人を1つのものさしだけで評価するのは判断がはやすぎる。
緊急時に役に立ったり目に見えぬ力を発揮していたりするからだ。
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