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読むとちょっとだけ教養が身につくノート

読むとちょっとだけ教養が身につきます。

自分がいままで学んでよかったなーと思ったことが書いてあります。(随時更新予定)

順番はないので、目次から好きな項目に飛んでみてください。

教養とは?

教養とはなんでしょう?
教養が身につく!と、うたっているノートですから、まず「教養とは何か?」というところからはじめます。つまりこのノートを読むとどんなメリットがあるの?ということにつながります。

この中で話している教養とは、リベラル・アーツの源流であるイソクラテスのもので「教養とは、運命として与えられた生まれ育ちから自分を解放するもの」です。
人間は、その生まれ落ちた場所と時代によって大きく人生が変わります。そして、価値観や思考や行動のパターン、経済的な豊かさ、人間のコネクションなど、生まれと育ちに束縛されています

例えば言語による束縛。人間は言語に大きく縛られています。日本語の「社長」という単語を見てみましょう。「女社長」はしっくりくるけれど「男社長」は違和感があります。これは、「社長」という言葉に男性がなるものという意味が隠れているからです。「ブラジャー」が女性がするものという意味が含まれているので「女性用ブラジャー」ように、女性という意味が重複していて違和感があります。日本語圏に生まれて日本語を扱うと、知らぬ間に「社長は男性がなるもの」というイメージが刷り込まれています。さて、日本に生まれて、日本語の「社長」という言葉を使わずにこれるでしょうか?ほぼ無理でしょう。

こういった、生まれや育ちによる束縛から逃れる術(すべ)、それを教養とします。つまり、ここに書いてある教養とは、世の真理とか豆知識とかではなくて、私が生まれや育ちの束縛から解放されたなーと思った知識や経験のことです。

価値観とは?

価値観とはなんでしょう?
「価値観とは有限性の自覚」である。とわたしは思っています。
「有限性」とは、限界があるよーというぐらいの意味です。「有限性の自覚」とは、人間には限界があるということを自覚することです。

どういうことかというと、例えば神様。神様は全知全能です。正しいことがわかります。人間が間違っていることも知っているし、どう間違っているか、なぜ間違っているかも知っています。全知全能の神様は、あらゆることについて知っているので価値観は持ちえません。価値観ではなく全知です。

神様に比べて人間は有限です。寿命があるし持ちえる知識にも限界があります。限界があるからこそ価値観が生まれるわけです。人間には限界があるというスタート地点にたってやっと価値観というものが見えてくるわけです。

意志とは?

「意志」とはなんでしょう?「意志」について考えるとき「責任」という言葉が重要になります。
「意志」とは普通、目的や計画を実現しようとする精神の働きの事を言います。肉体があって、そこに意志を入力すると、何か行動を始める。そんなイメージ。「意志→行動」という順番。
でも実は、人間は意志が無くても動くし、何より、行動した後に意志が生まれるのです。「行動→意志」。意志はあとからやってくるのです。

どういうことかというと、例えばアルバイトの遅刻。
「意志→行動」だとすると、「バイトだから遅刻してもいいや、という怠惰な意志があったので遅刻をした。」となります。
「行動→意志」だとすると、「遅刻したってことは、家を出るときに、バイトだから遅刻してもいいやという怠惰な意志があったはずだ」となります。
遅刻をしてしまったとき、「たしかに言われてみれば気が緩んでいたかも…」と思うこともあるかもしれませんが、意識していることはあまりないと思います。なぜなら、責任を取る場面になると急に意志が現れるからです。

わかりやすいように極端な例として、暴行事件を考えてみましょう。
あなたはある事件の目撃者です。誰にこの事件の責任があるか考えてみてください。簡単に言えば被害者に賠償金を払うべき人はだれか?を考えましょう?

事件1 AさんがBさんを殴った。
Aさんが殴り、Bさんが怪我をしました。誰が責任を負うべきでしょうか?もちろんAさんです。責任はAさんが負います。
事件2 実はAさんはCさんに「Bを殴れ」と命令されていた。
Aさんが殴り、Bさんが怪我をし、Cさんは殴れと命令していました。誰が責任を負うべきでしょうか?責任の重さはCさん>Aさんと感じると思います。
事件3 実はCさんは組織Dに騙されていて「Bを殴れ」と命令していた
Aさんが殴り、Bさんが怪我、Cさんは殴れと命令、組織DはCさんが「殴れ」と命令するようにだましていた。責任の重さはD>C>A。

さて、ここまで読んだら、「意志」と「責任」について注目してもう一度読んでみてください。「意志」が強くなると「責任」も重くなるのがわかりましたか?
責任の重さD>C>A。意志の強さD>C>A。
Aさんは命令されて、Cさんはだまされてとはいえ、そこには意志があったはずです。ところが誰が責任を取るんだ!という話になると急に意志に強弱があらわれます。

最後の例としてトロッコ問題
トロッコ問題も意志と責任に注目してみてみます。
有名な思考実験で、線路上を走るトロッコが制御不能になり、そのまま進むと5人の作業員が確実に死ぬ、5人を救うためにポイント(分岐点)を切り替えると1人の作業員が確実に死ぬという状況下で、線路の分岐点に立つ人物はどう行動すべきかを問うもの。
答えの一つとして、分岐点を切り替えると自分の責任、そのままならトロッコの故障の責任になるので、切り替えないほうがよいというもの。
意志があると責任を取らなければいけないのがわかるでしょうか?

ここから分かるのは人は意志があったから責任を負わされるというよりも、責任があるものとみなしてよいと判断された時に意志があったと解釈される。という考え方。 やる気があるから成功したのではなく、成功した人の精神にはやる気というものがあったということにしようという流れ。やる気がないからバイトに遅刻したのではなく、遅刻した責任を取らせるために家を出るときやる気がなかったということにされているのです。

「○○とは何か?」の考え方

「○○とは何か?」と考えるときどうしますか?
「○○とは何か?」と考えるとき、「○○なもの」を集めてきて、それらの特徴を集めればいい!というのは間違いです。なぜならそれは「○○とは何か?」ではなく「○○な物は何か?」について答えているからです。例をみるとわかりやすいはずです。

例えば「赤とは何か?」と考えてみます。
外国人に「赤とは何?」と聞かれたとき、ポストやトマトを指さして、「赤とはこれらの事だよ」というかもしれません。しかし、それは「赤とは何か?」の答えでしょうか?ポストやトマトは「赤いもの」であって「赤」ではありません。

例えば、いま思い付きで「あそい」という形容詞を作りました。
「あそいって何?」と聞いて、仮に「ジャンプ」「ダッシュ」「バク宙」を持ってこられてもそれは答えになっているでしょうか?それらは「あそい行動」であって「あそい」とは何かの答えになっていません。

「○○な物」を集められるのは「○○とは何か?」がすでにわかっているから集められるわけであって、まったく未知であったり、改めて一から「○○とは何か?」と考えてみようとしている場合には使えません。

「○○とは何か?」と、「○○な物は何か?」や「○○な行動は何か?」は別ものであるという考え方
そういわれると、ここに書いてある「○○とは何か?」という項目の内容は答えになってる?と思うでしょう。そういう、ちょっとした違和感こそまさに「教養とは何か?」で述べた束縛から逃れ始めている証拠ではないでしょうか?
ちなみにイギリスの哲学者ムーアという人は「善とは何か?」について、「善とは他の言葉で言い換えられるものではない」と答えています。

つづく…

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