#16『平成の政治改革』8/16
金沢市で政治活動をしています『あらい淳志』です。
今日のテーマは、『平成の政治改革』です。
#12、#13で、昭和の国会の仕組みを取り上げました。
振り返りとして、昭和の日本の国会の特徴を、まずは簡潔にまとめます。
『55年体制』といわれる自民党1党優位体制の下で、自民党では、族議員が党内の調整を通じて、政策を立案してきました。
社民党をはじめとする少数野党は、多数決では自民党に勝てませんから、国会審議では「時間切れ」と「世論の後押し」を狙います。決定的な対立を避けたい両党は、「国対政治」と呼ばれる非公式の場で、実質的な合意をしました。
『国民に見えないところで、妥協する政治』
それによって起こったのは、裏での取引と、国会審議の形骸化です。
自民党内の調整でも、与野党間の話し合いでも、「国民に見えないところ」で議論が行われるようになります。
与野党が裏で握ってしまうため、「大胆な改革ができない」という課題も抱えました。
その結果が、「金権政治」と「決められない政治」です。
国会での表の審議は、与野党がそれぞれの支持者に見せたい成果を、シナリオに沿って見せるだけの場所になってしまっていました。
昭和の政治の行き詰まり
こうした政治は、昭和の終わり頃までは、それなりに機能をしたのかもしれません。
ただ、あまりにも政治と業界との距離が近づいた結果、大規模な汚職事件が頻発するようになりました。
1980年後半にはリクルート事件が起こり、国民の中からも、政治家の間からも、改革を求める声が上がり始めます。
「カネのかからない、透明な政治」が方向性として目指されるようになりました。
さらに、より大きかったのは、冷戦の終結とバブルの崩壊です。
昭和の日本が安定的に成長できたのは、なによりも、冷戦下で西側諸国の一員として、日本の戦略的な重要性が高く評価をされてきたからでした。
有利な国際貿易の条件の下で、日本は自らの経済成長に集中することができました。
戦後の荒廃から、次第に経済・社会が豊かになるなかで、人口も自然に増え、国内の消費も生産も上向く、右肩上がりの時代にあったわけです。
それが、少子高齢化が少しずつ始まったことで、国内の消費や生産力は自然と下がっていく。
冷戦が終わって、日本の一人勝ちだったのが、アメリカやヨーロッパ、さらにはアジア諸国とも激しい競争にさらされるようになり、かつてほどの勢いを失っていく。
こうして、社会全体が自然と『右肩下がり』の時代に入ったときに、これまでのような政治の仕組みは通用しなくなっていきました。
これまでは、「どんどん増えていく豊かさを、どうやって国民に分配するか」が政治の仕事でした。多少いい加減な分配をしても、誰もが豊かになるのは確実だから、不満は小さかったのです。
でも、「右肩下がり」の時代は、豊かさのパイはどんどん小さくなっていきます。それを国民に分けるときは、これまでよりも取り分が減る人が必ず出てくるわけです。
日本の政治は、妥協がメインです。
みんなが利益を得られる妥協は、まだなんとかなります。
でも、誰かが損をする妥協は、容易ではありません。
その大変さを避けるために、問題を先送りにしようとして、パイの分配ができなくなったのが、昭和の日本でした。
国民に見えるリーダシップを
昭和から平成になり、これまでの政治では通用しなくなりました。
「国民に見えないところで妥協をする政治」では、対応できなくなったのです。
その対案として目指されるようになったのが、『国民に見えるところで、リーダーシップを発揮する政治』でした。
では、それらはどうすれば実現できるのか。
そのための取り組みが、「平成の政治改革」だったわけです。
リーダーシップを発揮するのは誰か?
まずは、リーダーシップについて考えます。
昭和の時代は、リーダーシップよりも、妥協が優先されていました。
与党の族議員が影響力を発揮し、野党も激しい反対で妥協を勝ち取りました。
反対に、首相をはじめとする政権幹部は、自民党から上がってくる法案を基本的にはそのまま受け入れざるを得ないわけです。
そこから、「首相がリーダーシップを発揮すべきだ」という考えが生まれます。「官邸主導」と呼ばれる考え方です。
族議員の影響力を削いで、首相に権力を集中させ、大胆な改革を打てるようにする。こうした方向性が目指されるようになります。
どうすれば、首相の権力は強まるか?
族議員の影響力を弱め、首相の力を強めるには、どうすればいいか。
その方策の一つが、「選挙」です。
首相の言うことを聞かない国会議員は、自民党の公認を外してしまうのです。
議員は、選挙に当選することが、最大の目標です。選挙の際に、自民党の後ろ盾を得られないのは厳しい。だから、総理の言うことを聞くしかない。
そういう状況を作ることが目指されました。
昭和の日本では、衆議院選挙は「中選挙区制」と呼ばれる制度でした。
一つの選挙区から、2~3人程度の当選者が出ます。従って、同じ選挙区に、何人か自民党の議員がいることが普通でした。
ある程度の力があれば、自民党ではなく無所属でも、下位で当選することが可能でした。
これを、「小選挙区制」に変えてしまうわけです。
一つの選挙区から、当選するのは1人だけです。同じ選挙区に、自民党が2人も3人も立てば、票が割れて、誰も当選できなくなる。
自民党から選挙区に立つのは1人だけ、というのが定石になるのです。
そこでは、自民党からの公認を得ることが、死活的に重要になります。個人の知名度に加えて、党の知名度や資金的な支援も期待できるからです。
この「公認権」を首相に集中させることで、自民党の議員を、首相のコントロール下に置けるようにしたわけです。
「○○チルドレン」という言葉は、首相の意向によって、誰を議員にするかが選べるということの裏返しです。
内閣機能の強化
選挙だけではありません。
首相のパワーをさらに強めるために、大臣などを選ぶ人事権や政策立案の力を強化しました。
特に、族議員と省庁が結びついた強固な「縦割り行政」は、首相のリーダーシップの発揮を妨げます。
そこで、省庁とは別に、首相直属のスタッフを配置し、強い権限を持った部署を新設してしまうわけです。
官房長官をトップとする内閣官房を強化し、そこに直属の検討チームを作っていきました。
経済や外交・安全保障等の重要施策について、縦割りでは決められない大胆な改革案を、各省庁ではなく、官邸で決めてしまい、トップダウンで方針を下ろしていきます。
内閣府という省庁の新設。「経済財政諮問会議」や「未来投資会議」、「国家安全保障会議」といった会議体や部局の創設。
これらを通じて、族議員による縦割りの政策立案から、官邸主導で方向性を打ち出すリーダーシップ型の政策立案に転換をしていったのでした。
まとめ
ここまで、平成の政治改革として、いかに政治がリーダーシップを発揮しようとしてきたかをみてきました。
首相をはじめとする官邸の力を強めることで、族議員や各省庁を抑え込めるようにしたのが、平成の政治改革でした。
これによって、妥協型の政治から、リーダーシップ型の政治への転換を目指したわけです。
これはある程度、効果を発揮しました。
首相が持つ力は、かつてに比べて、格段に強まっています。改革の力も、少なからず高まっているはずです。
問題は、もう一つの課題です。
『国民に見えない政治』を、いかに『国民に見せる』か。
透明性を高め、国民の意志が反映される機会を作り出すか。
リーダーシップが強いだけでは、独裁になりかねません。
そうではなく、首相の強力なリーダーシップを、国民がいかにコントロールするのかがポイントなわけです。
明日は、この政治の見える化について、取り上げます。
今日もここまで、ありがとうございました。
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