変質した感情を拾い集めては、成仏してもらうこと

自分があまりに、言葉にならない程、馬鹿だし、馬鹿げていたし、どうでも良く、いっそ、ペラペラの舞台の書割の、ほんの一部のような、そんなモノだったと、何かどうしようもなく分かってしまう時、
言語化、するどころではなくその状態は、速い。細かく速く、爆発してゆくような感じ、だったろうか。

よくある事かもしれない。思い入れとか、かけてしまった時間がなければ、そんなものかなと思うだけかもしれない。ただ、もうちょっとマシだと思っていたかったことが、妥当というよりもさらに酷く、下回っていた場合。知恵のある状態に戻れるまで、静止して待つ、そんな知恵も無かったが。
知恵というより意識なのかな。意識に対する、自覚や信頼、信念のようなものかもしれない。それがあったら違ったのだろう。それよりも観念とか、幻想が大事だった。

…と、なんやかや、何年も経ってから、やっと、なんとか継ぎ合わせた、不正確か、もしくは全然、実感に足りない役立たずの説明として、行き場のない言葉の屑が出来る。

正直、これをうまく言い表せたからって
なにも楽しくもないし、スッキリもしない。
このことについて関わる時間が、忌まわしいし惜しいとさえ、思ってしまう。
だって、自分のための時間じゃないから。

一喜一憂、するのがバカバカしいという強い思いが同時に発生すると、麻痺した状態になる。それは、バカバカしくなければどんなにか良かったと思うけれども、或いはバカバカしく思っても、それを当然の様に一喜一憂できる事は、なんだかきれいだなと感じるけれども、そういうきれいさは、私に欠けており、それを持っている人は居て、それはなんらかこういった状態への薬効を持ったエネルギーだなあ、と納得をしたりする。

とにかく、様々の圧力がかかり過ぎ、そもそもならひとつずつ味わうべきだった感情も粉砕されて飛び散ってしまった場合、後々所々から生えてくる雑草みたいに、その破片が立ち上がるたび処理してゆく、それしかない。
処理できないものについては、また違う扱いにしなければならないが、大概は解放する。そろそろ自動運転でどんどん、ナガラな塩梅で解放されていってもらいたい。

ひとつの方法だけど風呂に入る、のがいいとまた思う。温泉とか塩風呂とか。あったまる。気分が変わる。ぼーっとしてシアワセな感覚に満ちる。健康的でもある。それだと別に何も残らない気がする貧乏性の場合も、健康保ってると思えば。病に倒れるわけにもいかないなら、健康方面に積極的になったほうが良いだろう。

※やだな。ということって、今だっていくらでも、ある。あるけど、それらは影みたいにも感じる。
あのときと、根は同じで、変わったわけじゃない。



もしも何事かお役に立てましたら、ぜひサポートをお願いします☆