それがどんな創作であれ
自分のやっていることに、それを見ている人から、いろいろ、言われると、そっちに異常に気が引かれて、軸がどんどんずれていってしまう問題。いったい、そんなこと、いつからずっとそういう風だったろう。
なにかしら言ってもらうことは大事は大事だ。だけど時々、人の言葉とかいろんな情報とか、いっさいがっさい脇に置いて自分の腹で考えろな時がある。だから、いつも思うけど、大きな感動から始めた表現はうまくいきやすいと思う。大きな、というか強い。小さな感興が発端だと、それを大事にすることが難しくなってくる。だけど小さなことでも、これが大事で、これを言いたい、ということがあったなら、やっぱり其処に帰って、たとえ失敗作だわこれってものができたとしても、元の狙いはなんだったのか、をハッキリさせておくのだ。
その小さなことを理解できるのって、作ってる本人だけだから。出来上がったものに、必ずしもうまく反映されてこないときがあって、そうなると、観ている人はその見えるものでだけ判断するし、言うこともそこから勝手に発生した言いたいことを言うのだ。
だけど、批判されるということは、やっぱりつらいことなので動揺して、大事なことが頭から吹っ飛んでしまうなんてこと、どうしたってある。それでもいいから、後から思い出して拾うことが必要。
杉本博司の「苔のむすまで」という著作を読んだとき、読みにくいなりに面白いなという独特な感慨があったけど、実際、アーティストのアイデアとかコンセプトから始まって作品に至る思考の過程というのは、言葉で説明されると、相当強引だな??という印象受けるなと思った。
でも、その強引さが良くないと云いたいわけではなく、問題になるのは、出来上がった作品とかイメージだから、ただ、言葉でだけ説明された時、それ聞いただけだと、けっこう引っかかるものがあるというか、独りよがりに聞こえるというか、つまり、わからない。でも、出来上がったものをみると、ああそうかと思う。
結局説明したってそんなわかんないよということでもあるし、でもだからこそ、自分にしか分からないその何かの火花を、執念で掴んで管理していく。