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「見るものが大事」、ならば画集を見る


「見るもの」が大事なのだ、とよく言われてきてー、

いったい何年ほどたったかも、定かでないのだけど。分かっている、望まないことばかりの現実の、その望まないことばかりに熱中してしまっていても、何も変わらないかもっと不愉快になるのだ。「思考は現実化する」そうだね、結構、嘘じゃない。

そうかといって、ひたむきにぶれることなく来たるべきアカルイミライばかりを見つめられない、なんてままならないことも、珍しくはないだろう。人間とは弱くてままならない気分に支配されがちなものなのである。

ああ、どうしてか毎日、大量のノイズをかき分けて進まなくてはならない。惑わされることもあれば、気が散ってしまうこともある。そして時間だけは進む…。取り返しのつかない事の記憶などが、ちくちくと投げよこしてくる刺激で、自分の中から気鬱が出てくることだってある。簡単にどうにもならないことはあって、しかしネガティヴ感情に取りつかれたままにしてもいけない。

じゃあ散歩でも行こうか、要らないものを捨てて整理しようか、掃除でもするかという場合もあろうし、それさえする気力がすぐに出ないということもある。

ならば。画集を持っているならば、好きなアーティストがいるならば。

もし好きな絵が家にあるなら、好きな作品を画集に見ることが出来るならば、それは幸運だ。その画集を開けば、それらを見ていれば一瞬で気分が変わる。問題は画集は大きくて重たいことが多い。それで無意識に置きっぱなしやしまいっぱなしになってしまっていることも、ままある。本棚にしまって安心してしまっていることがある、そう気付いたら、取り出したらいい。特に憂鬱な朝は画集を見る。朝は画集を見ると、充実した時間を過ごせる。

絵葉書でもポスターでもいいんだけど、画集は、自分で探り出すというか、忘れていたものが出てくる感じも、いい。こんなのあったっけ、という気持ちになるのも、いい。

たとえ自分のなかでは、即見るものを変えられなくても、ただ、画集を開けばそこにイメージがあるわけで、そのなかの好きと思うものを見る。もちろん*インスタグラムでもたくさんアートは載っていて、好きな画家の、画集にはあまり出てこないような絵も結構探せば見つかって、それはそれでとても楽しいものなのだけど、出来ればブルーライトを発しないものを見る。つまり紙媒体を見る。紙は神。スマホやらipadやらを覗き込むのを休んでみる。ぶっちゃけ、目が疲れる→肩がこわばる→四十肩悪化(自分はこれ)

(*インスタグラムについてはもっと後でいろいろ言いたいことがある。)

ただ、いい画集、イマイチな画集というのはあるし、画集では伝わりきらないその作品のオーラというものがあるので、出かけて行ってアートを見る、という経験と比べると、やっぱりお手軽なだけあって、その感動も、分かった気になりながら、きっとそうでもないんだろうというようなもやもやはあるが。例えば、

超・大量の惜しみなさを繰り返しまくって描かれた、盛り上げた油絵具がポイントの一つである、フランク・アウエルバッハの絵画。これはやっぱり小さな画集では伝わりきらない。印刷では、分からない。

または、エミール・アントワーヌ・ブールデルの、オーラがまわりの空気を震わしている…!!というようなことを言っても大げさでもなんでもない、彫刻。特に聖母子像なんかは、やっぱり画集でしか知らないとしたら残念だろう。

まあでもともかく、画集を観よう。







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