リアリズム・マジックもある

思考はそれ自体、マクロコズム、ミクロコズム双方で、不適切なものを切り捨てていく自己修練の行為であって、明確に考察しうるものだけを残していく。  バックミンスター・フラー


たまたま開いたフラーの「宇宙船地球号」の一節が印象に残ったので引用してみた。実は以下に書くこととあんまり関係がない。

フラーは自分を「実験動物B」と呼んだんだっけ。フラーの業績など興味はあるものの、今更ながら、自分を「実験動物」呼ばわりするセンスが、実のところ、気持ちのいいものではないなあと感じる。もちろん他人を実験動物呼ばわりしたらもっと問題なので、自分で自分をそう仮定するならいいじゃないか、と思うかもしれない。でも、そうじゃないよ、となんとなく思う。

先日たまたま ケン・ローチと是枝監督の対談番組というのを見かけた。ケン・ローチがいかにリアルな映像を作っていくかの方法論は、聞いていて戦慄しかけた。まず彼はプロの役者を使わないし決まった脚本も使わない。大まかな人物と場面の設定だけあってあとはにわか役者にアドリブでの会話をさせる。リアルな貧困層、底辺層と呼ばれる人々の暮らしや生きざまを描写するにあたって、話し方・食事の仕方・英語の発音とか訛りといったもの・肌の状態から見受けられる健康状態…そういったディテールが肝だからである。かさかさして不健康そうな肌の質感のことを彼が言ったとき、あっと思わずにいられなかった。

現実にいま生きる人たち・活動する団体などに「間違っていないか、これこそが現状なのか」と映画の内容をわざわざ確かめさえしながらの、その映像の作り方を聴いていると、マジック・リアリズムというより、リアリズムにとことん迫ってそれを再現するというのも、またマジックであるというふうに感じた。彼がここまでリアルにこだわるのは、社会のクラスであるとか、どこの出身者であるとかいうことが、作り物であればすぐ「違う」と見破られてしまうようにはっきりしているイギリス社会で、ひたすら説得力のある映画を作るためなのだ。そしてそれは現実に生きる多くの人々に対する尊重心の表明でもあるんだろうと思う。

ローチ監督が是枝監督に対して、「あなたの映画では 一人一人の人物を人間として尊重し、あたたかな愛を持って見守り、描いているのがわかる。それは現在とても珍しいことで、素晴らしい」というようなことを言っていた。つまり多くの映画では、出てくるキャラクターをひとりの・等身大の、血の通った人間として扱う視点・尊重するような心構えがない、そういった映画のほうが珍しい、ということなんだろう。それはとてもよく分かる。私たちは人間否定の表現であったり、非人間的な視点を、ドラマや映画・物語表現からいくらだって学べるし、というか無意識的にそういったものを享受してきて、いつのまにか慣れているところがあると思うから。

それは、そういう物語の楽しみ方もあるとかないとかではなくて、究極、神とか支配者の視点なんだろう、と思う。あたかもゲームの駒のように人間を見て、取り扱うのである。そのときお前は何様か、という視点は無いことになっているか、忘れられているのだろう。

そこには死の香りがほのかに漂う。そういう視点にたって映画を楽しむこともあるだろう。自分だってそうして映画を楽しんできたことが何度もある。だが。

ケン・ローチの言っていたことでもっと心に残ったことがあるのだ。しかし、細かいところを忘れてしまったので、ここに書けない。ただ思ったのはこの人はボトムアップということを本気にやっているのだなということ。それがこの人の映画を作る意味なのだと受け取った。

是枝監督が、最後に、「彼は(自分にとって)ほんとうにロックな存在」というようなことを言っていた。「ロック=岩=心の支え」という意味で云われているように感じた。


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