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忘れっぽい私のための(適当な)短い読書 27

中桐 それから、田村が題が決まったら自分の詩ができたのも同然と言ったのは、結局、田村にとって、ある種類の題がその詩の核だということかな。
田村 そう、そう。題がその詩のスタイルとか、長さとか、音、色、全部決めちゃうわけ。
中桐 だから、「立棺」とか「言葉のない世界」とか「恐怖の研究」とかいう題が、そういうふうに。
田村 そう、そう。題で決まっちゃうわけ。題で、長さ、スタイルとか、全部目に見えてこなければだめなのよ。だから、僕の場合、書くという時には、或る意味じゃもうパターンができているわけ。あとはでまかせですよ。にんげんのやることってのは、それだけしかないんだから。いま詩が書けないのは、題がみつからないわけなんですよ。(笑)
中桐 題っていうと、ふつうは、あとからつける人が多いだろうがね。
田村 ふうん、そうかね。
中桐 それからね、もう少し、具体的にきみがどんなふうに書くかということを。
田村 それから、言葉を使って詩を書いているけど、実は言葉に使われているってことを、身にしみて感じないとね。それから、やはり言葉ってものは記号じゃないんです。記号って面もありますけど。言葉ってものは、言葉にならないから、いやいや使っているのかも知れないね。だから言葉に対する強い関心、むしろ、本能みたいなもの、結局、言葉を愛さなければだめなんでね。愛するってことは、異性を愛する事と同じことなんでね。ただ言葉のうえで愛するなんて言ったってだめなんですよ。その点、セクシーを感じなかったらだめなんです。結局、愛のないところに、あらゆる創造行為は生まれないんですよ。愛がなけりゃだめなんですよ。人類とか、平和の為とかに、詩を書いているんじゃないんだから。愛によって、ある固有のものを愛す為に書くのだから、それが人類や平和のためになるんであってね。われわれは、概念を愛すわけにはいかないのだ。原因と結果をとり違えるからね。愛っていうのはね、個体に向かうんですよ。だから、言葉がこんど個体にみえてこなければいけないんですよ。そういう意味だろうと思うんです。
中桐 なかなかけっこうでした。ではこんなところで。
 「私の詩とその世界」田村隆一 きき手 中桐雅夫 ~ 詩をどう書くか 日本現代詩人会 編より

(*この部分、読んでいてなんだかちょっと笑えたんだが…。一般に対談の記録を読む面白さは対談する二人が意気投合しノって話しているときだけでなく、なんとなく一致していなかったり、むしろ盛大に不協和音を奏でているとき、忘れられない一場面となるように、思う。この会話はそれなりにうまくいっていると思うけど。)

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