苦しみから離れることが出来る。

苦しい、苦しいけれども、その解決法は求めていない。他人の意見を求めていない。苦しい、そう言葉にする場所が欲しいだけだ。(だって、たくさんの情報は重たくて、かつ、フィットしないことが多い。)

書いたものを事実気にするのは自分だけでもいい、苦しいことを外から見れるよう、整理してみよう、そうしようとする態度が生んだ文が、読んで苦しいものになるかならないかは、わからない。

これは悪癖だなもううんざりだ、ということをやめたいとき、止めると思うと反動で逆にやってしまうということはあるが、しかし、しばらくして、あっさり出来ていくことがある。だから、しばらくやっていく…と思える。様子を見ていこう、そんなに、大変じゃない。一つの習慣なのだから、それはいろいろに変えられるのだ。当たり前のことだ。

悪循環をやめられるとき、その希望のあるとき、それってなにかいいなと思える。その時は全く新しい視点を持てるようになっていたり、心構えとか、精神状態が、急に違ってしまったりするのじゃないか。実は、そんな感覚を持ったのでー、寝起きのとき、昨日のことなんだけど。その感覚はー、言葉にすると薄っぺら過ぎてもう二度と思い出せなくなりそうだから、あんまり言語化しないでおきたい。

苦しみ、はいつの間にか自分と一体になっていくが、気をつけていると、苦しみから、くっついたり離れたりできる様な、薄い隙間が出来ている瞬間もある。苦しみに目を向けると、それはまた入り込んできて苦痛に変化するが、それを外に見て、ふわっとフーセンみたいに苦痛から離れるのをイメージすると、ああ、そうだ、こんなふうに離れることが出来るんだと思った。そうしたらもっと、もっと遠くにも出来るね。

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カクアラネバナラヌ、が楽しかったことはなかったということをこの間、書いた。聞くだにもっともなカクアラネバであるほど、おお、そうだなと真面目に受け止め、そのように出来なかったら自分を責めたりして苦しくなってしまう。だけど、考えてもみよう、例えば全く同じ鍛錬とか、全く同じ経験を経なければ、なにかを作り出せないのだとしたら。そんなのはおかしい。(無条件、無条件のはずだ。)バスキアは学校で美術の成績が良かったわけではない、例えば…。年間何百冊という本を読まないと、文章が書けない、とでも言うのか。では、年間に読んだ冊数は少なくても、一冊の本を50回読む人なら?いつも、例外や、ソウトモガキラナイ…話はある。「カクアラネバ」は自分を縛りつけ、息をできなくさせる。実のところ、本末転倒な、テクニック的なものや様式に重きを置いている考え方なんだと思う。それも一理ある。でも、それは、絶対か?

一方、カクアラネバ、が出来ること自体はすごい。誰でもが出来ることじゃない。むしろできない人の方が多い。並大抵ではない。だけど、それが絶対だとか正義だとかいう話になったら、じゃあそう出来ない人は皆だめで、なにも作れないのだろうか?「Nah」そ~んな。そんなこと、ないよ。そんなこと、無かったよ。

限界や欠点を逆転させる。思っても見ない工夫から新しい眺めが生まれる。そこに自由を予感させる興奮がある。それが、私がアートを見る時に興味をもって惹かれ続けていること。アートに限らないかもしれない。生きようとするサバイバルすべてなのかもしれない。








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