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【8/17】霊関連書籍の内容の抜粋です(祈)†「シルバーバーチの霊訓⑫」

『シルバーバーチの霊訓⑫』
世間でいうところの“成功者”になるかならないかはどうでもよい事です。この世的な成功によって手に入れたものはそのうちあっさりと価値を失ってしまいます。大切なのは。自分の霊性の最高のものに対して誠実である事、―

『シルバーバーチの霊訓⑫』
―自分でこれこそ真実であると確信するものに目をつぶる事なく本当の自分自身に忠実である事、良心の命令に素直に従える事です。

『シルバーバーチの霊訓⑫』
それさえできれば世間があなたをどう見ようと自分は自分として最善を尽したのだという信念が湧いてきます。そしていよいよ地上生活に別れを告げる時が来た時、死後に待受ける生活への備えが十分に出来ているという自信をもって、平然として死を迎える事ができます。

『シルバーバーチの霊訓⑫』
名声が何になりましょう。子供のオモチャのようなものです。何の価値もありません。そもそも名声はどうやって得られるかを考えてご覧なさい。お金があるとか世間的に出世したという事で名が知れたにすぎません。

『シルバーバーチの霊訓⑫』
イエスはそういう名声を一切求めませんでした。先師、聖者、先駆者、改革者と言われた人は名声を求めたでしょうか。大切なのはどれだけ人のために役立つ事をしたかであって、その人の名前ではありません。

『シルバーバーチの霊訓⑫』
ですからいわゆる有名人の名前を名のって出る霊には気をつけた方がよろしい。判断の規準は“何と名のって”いるかではなくて“どういう態度でどんな事”を説いているかです。

『シルバーバーチの霊訓⑫』
今地上人類は五感を通して感識する条件下に住んでおります。その五つの物的感覚で自我を表現できる段階にやっと到達したところです。まだテレパシーによって交信し合える段階までは進化していないという事です。

『シルバーバーチの霊訓⑫』
まだまだ開発しなければならないものがあります。地上人類は物的手段によって自我を表現せざるを得ない条件化に置かれた霊的存在という事です。この条件が自ずと思念の作用に限界を生じさせます。なぜなら地上では思念が物的形態を取るまでは存在に気づかれないからです。

『シルバーバーチの霊訓⑫』
思念は思念の世界においては実在そのものです。が地上においてはそれを物質でくるまないと存在が認識されないのです。肉体による束縛を全く受けない私の世界では、思念は物質よりはるかに実感があります。思念の世界だからです。

『シルバーバーチの霊訓⑫』
私の世界では霊の表現、または精神の表現が実在の基準になります。思念はその基本的表現の一つなのです。勘違いなさらないで頂きたいのは、地上にある限りは思念は仕事や労力や活動の代用とはならないという事です。強力な補助とはなっても代用とはなりません。

『シルバーバーチの霊訓⑫』
やはり地上の仕事は五感を使って成就していくべきです。労力を使わずに思念だけで片付けようとするのは邪道です。これも正しい視野で捉えないといけません。

『シルバーバーチの霊訓⑫』
あなたはその二つの眼で見ているのではありませんよ。またその二つの耳で聞いているのではないのですよ。見たり聞いたりは脳を経由して“精神”で行っているのです。もし脳が働かず精神に反応が生じなければ、その肉眼に映る光線は何の意味もありませんし―

『シルバーバーチの霊訓⑫』
―その肉耳に届けられる波動も全く無意味なのです。脳がレシーバーとしての働きをしてくれた後は、その情報を理解するのは精神なのです。肉眼そのものには“見る”能力はないのです。ただ光線を感知するための媒体にすぎないのです。カメラのレンズと同じです。

『シルバーバーチの霊訓⑫』
自分ではどういう役目をしているのか知らないまま自動的に機能しているのです。“見えた”という認識は精神がその印象を脳から受取った時に生じるのです。脳を傷めるとその認識が生じませんから、肉眼だけでは何も見えない事になります。

『シルバーバーチの霊訓⑫』
時として見方であるべき人物が敵に回る事があります。また時として、悲しい事ですがこの道に携わっている人が本来の目的を忘れて我欲を優先させ、一身上の都合の方が大義より大切であると考えるようになったりします。

『シルバーバーチの霊訓⑫』
万が一そういう事態になった時は、それは本来の道を見失った訳ですから、その方のために蔭で涙を流しておあげなさい。

【過去コメ】ちなみに低級霊と高級霊の“声”は、聞こえ方が全然違います。霊性発現当初は地縛霊から数々の攻撃を浴びましたが、その声は波長が低く単調な響きで、まるで横にいる人間に声を掛けられたかのような聞こえ方です。物質的、とでも言えばいいのでしょうか、僕たちの肉声に近い響きな訳です。→

→一方、高級霊の方々の声は、波長が高く、あらゆる音階のメロディが折り重なってハーモニーを奏でてるような、懐の深い荘厳美麗な響き方をして聞こえてきます。さらに遠くから響いてくる感覚もあります。そして耳に聞こえるのではなく心の中に直接声が入ってくるような、そんな聞こえ方なのです(祈)

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