わたしのこと。

自分を振り返ってみました。

「還暦」を前に、いまの自分につながるヒストリーが感じられるかな、と思います。

1.生まれてから~高校卒業まで

1961年2月熊本市で出生。一人っ子。

両親は3歳で離婚し、母と二人、18歳まで熊本市内を5回以上は転々と引っ越ししながら暮らします。

子供のころは、一人で過ごすことが好きで、百科事典の付録の赤いレコード(クラシック)を聴いたり、有名画家の絵を観るのが好きでした。なりたい職業は、バレエダンサーや歌手のバックダンサー、保母さんなどでした。

高校は、看護師の進学の道へつながる、カトリックのお嬢様学校を卒業。これは、親戚や母の「女性も手に職を」との勧めから進学。

確かに、うちは貧しかったため、「看護師」が生活力をつけるにはよいだろうという、自分なりの選択でした。

高校時代、ビートルズのジョンレノン好きの友達に影響を受け、キッスやベイシテイローラーズにはまります。

女子高でしたが、体育祭の応援団に立候補したり、学園祭で美人の同級生と一緒におにぎり屋さんを開くなど、裏方での目立ちたがりが芽生えます。

2. 看護学校入学~大学病院就職まで

東京の某看護学校(私立大学病院付属の看護学校で、現在は医学部付属の看護学部に移行)に入学。クラスメート4人が同じ看護学校に進学しました。4年間、寮生活をしながら勉学に勤しみ、実習を終え、無事看護師の国家試験に合格。

18歳で東京に出てきた私は、高校時代からの音楽好きが高じ、当時はラジオから流れる洋楽を数多く聴き、映画もよく観に行きました。

また、なにより芝居にはまり、劇団四季をはじめとして、大小様々な芝居を観に行きました。歌舞伎やお能にも興味を持ち、週1の頻度で観て回りました。

当時は、劇団四季の「市村正親」や歌舞伎役者の女形「中村児太郎(現9代目中村福助)」を、劇場裏で出待ちしたりしてましたね。また、看護学校に通いながら、ダンスも習いに行っていました。

当時は、ジャズダンスが主でしたが、講師が元劇団四季の振付師だった先生でした。ダンス仲間と先生の熱海の別荘に遊びに行ったり、結構遊びました。

かたや看護師という、生真面目すぎて窮屈な授業や実習より、私にとってダンスの練習や観劇、映画を観たり音楽を聴くことは、自分を表現したり、感性を磨くことのできる、唯一の場であり、ますますはまっていきました。

ダンスは、いつしか、ジャズダンスからジャズバレエ、アクロバティックジャズダンス、エアロビクス等々、とにかく体を動かしていないと気が済まない感じでした。

看護学校卒業後、付属の大学病院の内科(呼吸器・循環器病棟)に就職することになり、5年間過ごします。

5年も同じ病院にいたら、他の病院にも行ってみたい気持ちになり、某国立大学病院の分院に就職します。

そこで、国立大学病院のずさんさに衝撃を受け、わずか半年で退職することになります。

ここからが、私の波乱万丈な、転職生活が始まるのです。






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