手段の目的化の最たるもの

本来目的を達成するための手段だったものが、いつの間にか目的に成り代わってしまっていることがある、という話を、今朝未明にうっかり目覚めてしまったため手に取った、ジェーン・スー氏の本で読んだ。

今日は友人と待ち合わせの予定があったので、暑い最中を駅まで歩き、電車に乗り込んで向かったのだけど、冷房が効いた社内でどっしり腰を降ろしてしまうと、もはや降りるのが億劫になる。

いわゆる「鉄ヲタ」では無いのだけれど、「乗り鉄」の気持ちはなんとなくわかる自分にとって、電車に長時間揺られるのはあまり苦ではない。
むしろ、降りる駅が近づいた時に、名残惜しさを感じることが多々ある。
もちろん、前提として「混雑していないこと」と言う条件下において、ではあるが。

電車に限らず、高速バスでも同様に、そのままずっと乗り続けていたいような気持ちになることが多々ある。
もちろん、ついついウトウトしてしまった時は間違いなくそうだけど、イヤホンから音楽やラジオを流しながら、景色がただただ流れていく様や、車内の人々の様子などをぼんやり眺めていると、その強すぎない断続的な刺激に癒しを感じることがある。

目的地へたどり着くための手段=移動ではあるけど、もはや目的地へたどり着くことよりも、移動している時間に意義を感じる、まさに、手段が目的化している例を身近に見出した瞬間であった。

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