斯くて翠の神経網
声も音も、会場を埋め尽くす聴衆が沸き立つその中空を、真っ暗い空間が吸い取っていくのを見つめていた。
知る人ぞ知る音楽家ヒラサワ。
ライブの板の上、ダラダラと流れる汗がスッ、と冷える。
聴衆もメンバーもスタッフも、誰一人気づかない。ヒラサワ一人だけが見えていた。
宙に浮かぶ幽霊船。大勢の亡者どもが身を乗り出しステージ上のヒラサワを見ていた。
――怖くはない、アレも客だ。落ち着け、いつもどおりにヤるだけだ。――
自身に言い聞かせると亡者は姿を変え、見知った人の姿を現す。今生では二度と会えない人たち。
ありがとう、来てくれて。最後まで見てってよ。
ラストの曲、観客のボルテージは最高潮。眩しいライトに照らされて客席は見えず大興奮のうちに終演した。袖へ捌けるすがらチラ、とあの暗い宙空を見たが既に何も無かった。
あれから幾星霜か。手は節くれだち顔には深い皺が刻まれ、眼鏡をかけなければならない不都合はあるものの、ヒラサワは益々精力的に音楽の道を邁進している。
そういえばいつの間にか、あの幽霊船は現れなくなったな、と懐かしむ余裕も有る。あの頃見えた幽霊船は、子供の頃のある記憶に由来するものだとヒラサワは自己分析していた。
その記憶――ゆめ。
まぶしい。もう、あさ?
兄も父もまだ寝ている。室内は真っ暗。窓の外だけが昼の様に眩い。
ススムは光の主を確かめに外へ出た。いつもと地形が違うが気にならない。川原のような草地が盛り上がり、その登った先に何かあるようだ。
お下がりのズックが脱げそうになるのを堪えて懸命に登った先は.......
眩い発光のなか幾つものシルエットが黒くぼやけて見えた。その中央部にメリーゴーランドのような巨大な物体が赤や緑の点滅をグルグルと回転させている。
「すごい、きれい・・・」
遊園地のアトラクションにも見えるその物体に釘付けのあまり、近づく存在に気づけなかった。
「うわっ、なに?!」
黒い腕のようなものが近づいて咄嗟に身を捩った。見れば同じような背格好の黒い人型のなにか。ススムはそれを見た瞬間に「同じくらいの年齢の子供」だと認識できた。自分に対する興味なような感情も伝わる。テレパシーのような。大きめな人型が現れて小型に寄り添う。その子の母親だということが何となく伝わってくる。その真っ黒な顔の部分の目の位置が緑に光る。大型の存在に急に恐怖心が募り咄嗟に全てを理解する。「行かないで」そう聞こえた気がしたがススムは家へ向かって一目散に走り出した。
帰りついた家は変わらず夜の空間。安堵と共に再び眠りについた。
その夢を見ることはその後無かったが、「着いていけばどうなったろう」と夢想したりあのテレパシーの感覚を思い起こすことは幾度となくあった。だがあの黒い人のようなもの。亡者のようにも見えるアイツラ。あれが死者を運ぶ船だったとしたら。
会えなくなる人が一人二人と増える度に、その「時空を旅する死者を運ぶ船」の存在は彼の心の奥底にいつも静かに横たわっていた。
ツアー最終日。幾つかの小さなトラブルもいつも通り乗り切り調子よくライブは進行している。幽霊船が消えた頃から客席がハッキリ見えるようになった。全部が見える訳では無い。舞台近くの前方席、ライトが客席を照らすその瞬間に驚いたようにポカンとした顔が幾つも並んでるのが見える。知り合いでもないのによく見る顔を見かけてあとで思い出し笑いをすることもある。だが今日は不思議な親子連れを見た。ヒラサワが演奏するレーザーハープに呼応するように、瞳が緑に光るのだ。歌唱しながらどうしても目がそちらに行く。
ああ、そうか、思い出した。
次の曲の前奏は長めに取ってある。その間に場面転換し小道具を準備する。ヒラサワは舞台袖に下がり水を飲みながら独り言を呟いた。
「懐かしいな、来てくれたんだ。」
耳聡いスタッフかすかさず聞き返す。
「え、どなたかお知り合いですか?」
「うん、カメアリのね。まさか来てくれるなんてねぇ。」いつになく嬉しそうに言う様子にスタッフは驚いた。その新人スタッフはヒラサワのファンでもあり何か隙あらば役に立ちたいとチャンスをうかがっていたが、なぜかそのチャンスは今だ、と早合点することになる。
そうとは知らないヒラサワはテスラの放電に照らされて再びステージへと降り立つとわっ、と歓声が上がった。
「どの人ですかね?」
新人は先輩スタッフに尋ねるが当然のごとく叱られる。
「本番中だぞ、仕事に集中しろ。」
映像スタッフが覗き込むモニターに客席が映る。感の良すぎる新人は緑の瞳を見つけてしまうのだった。
「お疲れ様でした!!」
「はい、お疲れ様ー、ありがとう。」
全ての演目が終わり控え室へ戻って来たヒラサワは拍手で迎えられる。だが終演直後の撮影のために衣装のまましばらく待たなければならなかった。スタッフ達は片付けのために慌しく動き回っている。
「おーい、新人どこいった?」
「なんかホールの方に走っていきましたよ。」
「あいつ、余計なことを、」
ヒラサワは忙しそうなスタッフの様子を横目で眺めつつお茶を飲みながらぼんやりと、あの緑の瞳を思い出していた。
「失礼しまーす!師匠にお客様です!」
控え室のドアが開いて新人スタッフが現れた。その後ろから中年の女性と、その息子と思われる学生風の青年が申し訳なさそうに入ってきた。
中堅スタッフがその二人を遮ろうとする、その動きを察知してヒラサワはわざと大きめの声でわざとらしく声をかけた。
「おお!お久しぶりです、お元気でしたか?」
本当に知り合いだと分かりスタッフ達は安堵する。新人は影でドヤされていたが。
「ほんとに、懐かしい。よく来てくれました。息子さん大きくなりましたね。」
息子ははにかみながら小さく会釈する。十代後半くらいの年齢だろうか。女性の方は40代に見える。
「来ると分かればおもてなししたかったのに」
「いえ、いいんですよ、何十年ぶりかしらね。息子が行きたいって言うから私も懐かしくって。こうしてお会い出来ると思いませんでしたわ。」
「いや、ほんと懐かしい」
撮影どうしますかと耳打ちされるヒラサワ。親子は用があるから、と暇を告げた。
「来てくれてありがとう。次は連絡ください。」と息子に手を振った。二人がドアから遠ざかる瞬間、瞳が緑に光るのが見えた。
「会えて良かったですね、どんなお知り合いなんですか、師匠。」
撮影も終わり帰り支度のヒラサワは遠い眼差しを向けた。
「さしずめ同郷の知人といったところですかね。」
じゃ、とスーツケースを引きつつヒラサワは颯爽と裏口を出ていった。
「結果オーライだな。」
新人はバチン、と背中を叩かれる。通常有り得ないことだとこっぴどく叱られたが本当に知り合いだったことと当のヒラサワ氏本人が喜んでくれたのでクビは免れたようだ。
「ところでなんであの二人だと分かったんだ?」
ロビーへ溢れ出る大勢の観客の中からたった二人を探し出すのはどう考えても不可能だ。それも短時間で。先輩の質問に新人は悪びれもせず答えた。
「だって、目が光るんですよ。師匠ならそれくらいのお友達いるでしょ。」
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