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生活の作法

生活の作法

 生活に作法を持ち込むという事を考える時、私はいつも山上の寺院で修行をする僧侶を連想する。例えば禅宗の修行では、起床後の布団の畳み方から身だしなみの整え方、食事、掃除、読経まで、一分の隙間なく秩序立った作法が設けられており、雲水たちは長い時間を掛けてこれらを体得していく。その根底には座学だけでは悟りは得られず、頭だけではなく足を動かさなければならないという思想があって、よく「生活の全てが修行」と評される。些細な動作の一つ一つに意識を集中させることから始めて、最終的にはそれらを全く意識することなく、意識を集中させていた頃と同じかそれ以上に淀みのない動作でこなせるようになることで、初めて悟りへの第一歩が得られる。そのためには、そうした作法の1つ1つに対して疑心を持つような事態はなるべくあってはならない。

 形式というのは長い年月をかけて集団的に遵守することが自明なものであるという共通認識がなければ、本来無意味なものだ。宗教生活は俗世間から隔離されているため、形式を保持しつづけるのは比較的難しくないのではないかと思う。おおっぴらには利得を稼ぐ必要性がなく、合理主義のつけ込む余地がない。また、構成員の目的がそれぞれ微細な違いはありつつも、救いや悟りへの道という、より大きな部分で一致している。そこで、修行生活の一定の割合については思考停止ともいえる態度を採用することによって、より重要な事柄に対してより大きな労力を割けるようにするのである。

 多くの作法は、半ばこじつけで決められている。お焼香の回数は、曹洞宗では2回、天台宗では1回又は3回、真言宗では3回……と宗派によって基本的な数が決められているが、そこまで厳格に従うことは要求されていない。回数自体にはあまり大きな意味がなく、回数を決めておくことに意味がある。いちいち考えるに値しない瑣末な問題が世界には溢れているから、こうしていちいち考えなくても済む工夫をするのだ。

 いっそ、個人生活における所作についても、こじつけでルールを決めてしまえばいい。例えば、食事は必ず1汁2〜3菜の枠に収まるようにすると決めたり、着る服の色は3色に限定するとか、朝起きてからと寝る前の動作の順序を全て決めるとかして、生活を送る上で毎日訪れる「今日はどうしよう?」を可能な限り削ってしまう。積極的に「枠」を求めることによって、些細なことで悩む時間を少なくするのである。これは一見不自由にも思えるが、自分の生活を振り返ってみるとそこらじゅうに溢れる自由に対して、むしろ辟易して無気力になってしまうことの方が多い。いわゆる「決断疲れ」というやつだ。そのような事態に比べれば、今までと比較して多少の不自由など、本当はどうってことないのかもしれない。

組織の人間性

 これまで書いたように、作法は、思考を温存するために定めるものである。本来どうでもいいことに頭を悩ますのがもったいないから、作法がある。しかし、作法を厳格化してしまうと、むしろ逆効果になってしまう局面がある。企業組織においては、どうでもいい作法が半ばドグマ化してしまっていることが少なくない。ハンコがお辞儀していないから書類を作り直さなければならなかったり、企業への誠意を見せるためにエントリーシートを手書きしなくてはならなかったりするのは端的に言って時間の無駄というもので、ただただ愚かしい。名刺の差し出し方だって、なにもいちいち相手に向きを合わせて両手でうやうやしく差し出さなくとも、片手でぽんと渡したって失礼には当たらない世界の方がずっと生きやすい。基本的なルールは決めつつも、必ずしも守らなければいけないわけではないお焼香の回数のように、作法はゆるく決められ、開かれているべきである。人が集まれば集まるほど、ただでさえしがらみは多くなり、人は自分らしさというものを見失いやすくなる。だから、組織集団の規模が大きくなればなるほど、秩序や規律だけでなく、人間性に意識を向けることが必要になるのではないか、とも思う。

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