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闇の立身出世

 先日起きた社会学者・宮台真司に対する傷害事件のニュースを見ながら、昨今たびたび言及されるようになった「無敵の人」についてぼうっと考えていた。

 「無敵の人」として社会に大きな影響を与えようとする人物にとって、「人生の成功」とは、仕事で成功してお金儲けをすることでも、アイドルと結婚することでもなく、「犯罪」なのだと思う。つまり特定の人物をターゲットにした場合は、彼(女)を殺害もしくはそれに準ずる損害(脅迫による活動停止など)を与えること、不特定多数の人物をターゲットにした場合は警察が駆けつけるまでの短時間に、できるだけ多くの市民を殺傷すること。

 「無敵の人」が生み出されてしまう要因に「孤立」があるのではないか、という指摘はもう何度もされてきたことである。家族や友人が不在あるいは没交渉状態で、社会的に役割を果たせるような居場所もなく、恋人もいない。唯一存在が許されている場所といえば、自宅か、お金を払って居座ることができるコーヒーショップ、あるいはショッピングモールや図書館などに限られている。もちろん「無敵の人」として犯罪を起こしてきた人たちがみんなこのような状況にあったとは言えないが、「黒子のバスケ脅迫事件」を起こした渡邊大史も、今夏に安倍元首相を銃殺した山上徹也も、大別するととても近い状況に置かれていたことが判明している。

 自分以外の誰からも、興味を持って認識されることがない状態。それは限りなく「死」に近い。ここでいう「興味」とは職業や一時的な役割を離れた、もっと個別的なものだ。人は役割を離れた個別的な紐帯によってのみ、自らが生きていることを実感できると言えるのではないだろうか。

 例えば僕がコンビニに買い物に行く。商品をカゴに入れてレジに持っていくとカウンターの向こうにいる制服を着た人が会計をしてくれる。この時、僕は「客」で向こうは「店員」として一時的な役割を演じている。「店員」は金額を伝え、「客」である僕はお金を支払って商品を受け取り、礼を言って店を出る。この限定的なコミュニケーションでは僕がどんな人間であるか、ということに対して「店員」は何ら関心を持たないし、逆もしかりだ。

 コンビニを出て僕は帰途につく。家に入ると、一緒に暮らしている両親が「何を買ってきたの?」と聞いてくるので、僕は袋の中からプリンを取り出して見せる。部屋に戻ってプリンを食べながら、スマホを見ると友達から釣りの誘いが届いている。両親は僕がどんな物を食べるのかを知ること、あるいは些細な会話でも家族でコミュニケーションをとることを大切にしていて、友達は僕という人間が釣り好きであることを知っている。そこでは僕は確固としたパーソナリティ、趣味趣向を持った人間として尊重されているし、関心を持たれている。その状態は時に煩わしくもあるが、平凡な自分でも受け入れてくれる土壌があるという安心は、日々をどうにか生き抜くのに良く作用する。

 今記した一連の流れから、後半をまるまる剥ぎ取ったらどうだろう。つまり自分個人に興味を持ってくれる存在がこの世界に皆無で、その状態の日々がこれから死ぬまで連綿と続く予感に苛まれていたとしたら。

 僕はこれまでに数度、それに近い状態になったことがある。

 僕は何もできない癖に気位だけが高く、自分では何一つ創り上げることができないくせに過度に分析的で、おまけに人の表情と空気が読めない。正確には察知はできるのだが、察知が遅すぎて手遅れな時が多いのである。それで小学生の頃からいろいろな場面でコミュニケーションに苦労することが多く、要領も悪かったからいつだってどんな場所でも自分が不適合であるという気持ちを抱いていた。無能でコミュ障で傲慢で皮肉屋で見栄っ張り。それでまあこの手の人々にありがちなことなのだが、大して読めもしない文学やらニーチェにかまけて自分は特別な存在なんだ超人なんだとスーパードライ片手に狭い独房のような下宿で撫然とする日々を送っていたのだが、当然ながらそんなことをずっとしていては友達はどんどん離れていくし、恋愛相手にも恵まれない。で、結果として孤独になった。

 僕の場合は孤独になるべくしてなったというパターンなので、これをただちに他人に当てはめるということはできないが、しかし孤独の味がどういうものかはそれなりに覚えがある。その日々において、実際に何度かはもう死んでしまおうかなあと思ったし、もちろん心療内科にも通っていた。そうして誰からも愛想をつかされた状態で、何の誘いの連絡もこないし、自分でコミュニティを作るような気力も能力もないので、話す相手と言えば毎日立ち寄るコンビニの店員とか、図書館の受付とかその程度で、声は日に日にかすれていったし、白髪も倍増した。

 今もそんな状態から完全に回復したとは言えないし、ものすごく落ち込んで動けなくなる日も定期的にあるのだが、あの頃の孤立感といったらなかった。自分以外に自分が生きていることをリアルタイムで把握している人間がいなかった。その時に僕は自分で犯罪を犯してしまおうとまでは思わなかったが、「軽犯罪を起こして刑罰を受けること」と「誰にも迷惑をかけず、したがって誰からも認識されずに死んでいくこと」とを天秤にかけた時に、答えが自明には出ない状態までは行った瞬間があった。

 つまり、ある種の人間にとって、社会で平常とされている「他人に迷惑をかけない」という"美徳"はどちらかと言えば(人畜無害のままでは誰からも認識されないままだという意味で)失敗に値し、タブーとされている「他人を傷つける」という"悪徳"は成功に転じる逆転現象が起きるのである。

 社会人として目指すことがなぜか自明とされている幾つかの限られた成功像のほとんど全てを諦めざるをえず、家庭的事情や気難しいパーソナリティその他もろもろの要因から、どのコミュニティからもこぼれ落ちてしまった、あるいはそのような自意識を持ってしまった人間にとって、報道やジャーナリズムを一瞬でも独占することができるようなセンセーショナルな事件を起こすことは、社会に自らの存在を示威するための最後の砦となりうるのだと思う。


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