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ドラッグみたいな夢を見すぎて脳みそがスカスカになった人間

(「noteのcakes」アカウントに2019年5月4日に書いたものを転載しています)


 時々、「暗いね」と言われる。初対面の人からはどちらかと言えば近づきがたい人間のように思われるらしい。他人から話しかけられて嬉しくないことはなく、手前味噌ながら自分はそこまで冷血な人間ではないと思っているのだが、鏡で見慣れた自分の容姿と、写真で改めて切り取られた自分の容姿の落差に愕然とすることがあるように、自己イメージと客観イメージは往々にして異なるものだから、その点は最近割り切っている。暗い人間に見えてもいい。ウジウジしている人間が好きだ。都合のいい話を聞かされた時に感じる「躊躇い」が愛おしい。空虚な愛嬌よりも、正直な無表情の方が信頼できる。「絶対」を信じて止まない狂信者の明朗さよりは、「多分」に寄りかかって思い悩みながら歩む人間の暗鬱さに寄り添っていたい。


 高校生の頃から付かず離れず付き合っている友人が、最近アムウェイに勧誘されたという。マルチ商法で有名な、あのアムウェイだ。きっかけは、知らない人と通話できるトークアプリで知り合った同年代ぐらいの男。彼と妙に意気投合した友人は、その後二人で新宿に繰り出し、ナンパに挑戦したりしたそうだ。そして友人が何となく「この人とはひょっとしたら友だちになれるかも……?」と思い始めた矢先に、ある日突然その男にマックに呼び出されてアムウェイの話をされたという。

ネットでアムウェイに関して調べると、街コンや知らない人が大勢集まるホームパーティで知り合った人間が、実はアムウェイの会員でした、というパターンはよくあるらしい。(異様に愛想がよく、こちらの語りにさも興味深げにオーバーリアクションで相槌を打ってくれる人間が、初めて会ったその日に「夢」「海外旅行」「職場と家を往復するだけの生活」について話し始めたら注意する必要がある。そこに「金持ち父さん貧乏父さん」(ロバート・キヨサキ著)の話が加わったなら、何も言わずに笑顔で席を立ってその場を離れたほうがいいかもしれない。)


 マルチ商法は犯罪ではないという。別に金儲けが罪だと言いたいのでもない。それでも好きになれないのは、経済的利害を考えてそのようなイベントに参加しているわけではない人間を、空疎な愛嬌で信頼させた後に、薄っぺらな敬意と損得勘定に裏支えされた「こちら側」のネットワークに取り込んで共犯関係を増殖していこうとする狡猾さが癪に障るからだ。Win-Winといえば聞こえがいいけれど、アムウェイ会員になったことが原因でそれまで育んできた交友関係を失ってしまったという体験談の多さが、軽薄な相乗の裏に横たわるおびただしい量のLoseの存在を物語る。それまで数式が入り込まないまま維持され得てきた無形の財産を、たちまち可算名詞に変換してしまう非道さが、個人的に受け付けない。

それにしても、マルチ商法の代名詞的に認知され、つまり警戒されるようになったアムウェイの勧誘って金儲けとしてはどう考えてもコスパが悪そうに見えるのだが、なぜ彼らはいつまでも勧誘活動を続けるのだろう。東京で数年でも暮らしている人なら、どんなボンクラでも「アヤシイ」と思いそうなものだ。不労所得と言っても、一人の会員を何日も何時間もかけて回りくどい説明をしてさえも成功するかどうか分からないという方法は、「楽して稼ぐ」とは全くかけ離れている。「アムウェイって聞くとさ、なんだか宗教勧誘っぽくてアヤシイと感じると思うんだけど、実は全然そんなことないんだ。まあ実際に製品の効果を見てみてよ。そうしたらきっと信じるからさ……」と言ってデモンストレーションを行うのが常套手段の一つらしいが、完全に対策のピントが外れている。同情も共感もピタ一文やる気はないけれど、涙ぐましいほどの労力を捧げて盛大に本末転倒している彼らの話を聞いたり、読んだりしていると、一種の思考停止に陥っているようにも思えてくる。


 ここまで書いてきて、ふと「レクイエム・フォー・ドリーム」(2000年)という映画を思い出した。鬱映画を検索していると必ず名前が出てくる、暗くて辛くて痛い映画だ。エレン・バースティン演じる未亡人サラが、ある日TVショーの当選通知の電話を受ける。それまで一日中TVを観て過ごし、自堕落な食生活を送っていたサラは、出演する時に着ようと思っていたドレスに身体が入らなくなっていることに気づく。そこで彼女はダイエット生活を始めるが、それまで食べたい放題なまけたい放題だったところにいきなりキツイ食事制限と運動をぶち込もうとしているのだから、当然続かない。もっと楽して痩せる方法はないか。そこで友人に進められた医者に行くと、ある薬を渡された。飲むと、あら不思議、別に食事を我慢しなくても痩せる痩せる。これに味を占めた彼女は、医者から設定された一日の服用回数を超えて薬を乱用するようになる。効果が薄れてくれば、飲む量をもっと増やせばいい。もっともっと……と、そのうち、サラの身体に変化が訪れる。常に動悸が激しくなり、他人に音が聞こえるぐらい強く歯ぎしりをするようになった。顔の方も頬がこけて、常に皮膚が張っているような鬼気迫る様相になってきた。いつの間にかサラの姿は別人のように変貌していた。そう、医者から渡された薬はただの覚醒剤だったのだ。気づいたときにはすでに遅し。サラは廃人になって精神病院にぶち込まれてしまう。TV出演は夢の中に消え、赤いドレスはクローゼットの中でホコリを被っていくのだった…。

以上が作中のメインストーリーの一つ。ドラッグにハマって徐々に破滅に向かっていく、という筋書きがこの映画の主な登場人物たちに共通する通奏低音なのだが、ドラッグの危険性云々みたいな保険体育の教科書的な教訓がメインのテーマではなく、「なりたい自分」「理想の自分」への憧憬(=夢)を強く抱きながらも、易きに流され、人間関係に翻弄され、刹那の快楽に逆らえなくなって、遂に夢が夢のままで終わる一部始終こそが、この映画が描きたかったものなのではないかと思っている。そういう意味で、この映画はまさしく「レクイエム・フォー・ドリーム」(「夢への鎮魂歌」)なのだ。R.I.P。夢が夢のままで人生が終わる。これって普遍的な話だ。誰だって何かの夢を見ているし、頭の中には「やりたいことリスト100」がしっかりとしまい込まれている。「死ぬこと以外、かすり傷。」や「ブランド人」など、耳障りのいいパワーワードが並べられた自己啓発書は、読む者に大胆不敵な発言と行動力で次々に事業を成功に導き、SNS上でヨイショされまくるカリスマビジネスマン(or経営者)になった夢を見させる(その夢の残骸が、主にTwitter上に散見される「著者のRTを狙いすましたかのように薄気味悪いポジティブワードで塗り固められた読後感想ツイート」だ)し、親は自分の子供に、叶わないまま時機を逃した「なれなかった自分」を「あなたのため」と言って押し付ける。街の向こうに見える山影に心をときめかせて、長い時間をかけて歩いて行っても、辿り着く頃にはまた地平線の彼方に逃れてしまっている。まるで赤いマントを振るうマタドールと、それを追う闘牛のような関係である。


 「遊んで暮らせる」生活、「勝手にお金が入ってくる」生活を夢見て、マルチ商法の勧誘にいそしむ人々は、ほんの一握りの「成功者」の偶像に惑わされるばかりで、空回りする自分の弁舌が聞き手をうんざりさせていることにも気づかない。工夫したり、自分の来し方を振り返ってみたりする知性はとっくの昔に断捨離してしまい、代わりに頭の中には実体のない「夢」が詰まっている。気色の悪いタイトルの自己啓発書やセミナーと同様に、それは覚醒剤やエナジードリンクめいていて、一時の高揚を与えるだけでまるで内容に乏しく、何の道標にもならない。

自己の正気を疑えるのはむしろ常人の証だと思う。自己の狂気にすら気づけなくなった人間が一番怖い。同じように、自分も傍から見れば「狂気」としか思えないような「夢」にとらわれているかもしれない。その「夢」を絶対的なものとして崇高していると、人生なんて簡単に棒に振ってしまうだろう。だから、やっぱり自分はずっと疑い続けていたい。煮え切らない性格と言われても、意固地に思われてしまっても、あるいはそんな性格が原因で憂き目にあい続けようと、「それ、本当かな?」と考える知性だけはずっと残しておきたい。

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