チロルチョコで人生変わった話
今日、コンビニに行った時の話。
デイリーヤマザキで缶コーヒーとチロルチョコ1つを持ってレジに立った。店員のおばちゃんが商品を打ち込み、「141円です」と言う。財布の中を見ると10円玉は4枚もなく、そのかわり50円玉があった。俺は100円玉と50円玉、それからおつりの額をキリ良くするために1円玉を加え、カウンターに置いた。「151円で」と言って小銭を置いた。するとおばちゃんは「はい、151円ですね」と言ってそのお金をレジに流し入れ、「7円のお返しです」と言って俺に小銭を渡した。
10円玉1枚だけを貰うつもりで空を泳いでいた俺の右手が、予期せぬ1円玉2枚+5円玉1枚の襲来に体勢を崩し、小銭が床に落ちて涼しい音を立てた。
「7円? 10円ではなく?」
眉をひそめつつ俺はおばちゃんを見た。するとおばちゃんは仏頂面でレジのモニターを指で指し示す。そこには「144円」と書かれているではないか。
「Oh! Shit!」俺は叫んだ。「144円」を「141円」と聞き間違えていたのだ。腹の底から煮えたぎるような憤怒と、拭いがたいほどの深い悲しみが、台風が3日間で100個通り過ぎた町の下水道の泥水のように迫り上がってくる。俺は嗚咽しながら床に落ちた小銭を拾い、おばちゃんに深くお辞儀をしてから店舗から駆け出した。
外に出ると、眩いばかりの陽光が頭上から俺を殴りつけてくる。涙でぼやける視界の中、俺は脇目もふらずに駆け出した。突然道路に駆け出してきた男に驚いてトラックや自動車がクラクションをけたたましく鳴らしながら通り過ぎていく。
「誰でもいい。誰か俺を殺してくれ」
そんな気分だった。俺の恥を、命もろとも奪ってくれ。俺はポケットの中からさっき買ったチロルチョコを取り出し、包みを解いて上の方の口ではなく下の方の口、つまりアナルに突っ込んだ。夏の熱気とアナルの湿気でチョコはたちまちのうちに溶け出し、俺の尻と太腿を伝い落ちてゆく。
傍から見れば、俺は外出中にウンコを漏らしてしまい、下痢を垂れ流しながら家へ走り帰っている男に見えることだろう。じんわりとした羞恥が汗とともに俺を包み込む。しかしそれでいいのだ。大の大人がウンコを漏らして半ケツで泣きながら帰っていると思われる恥ずかしさなど、勘定を聞き間違えて出さなくてもいい1円玉を出してしまった恥ずかしさに比べれば赤子のようなものだ。毒は毒を持って制すのだ。
*
しかし、この「恥を恥で麻痺させる作戦」は長くは続かなかった。
初めは何かの冗談かと思った。ある日、いつものように俺がチロルチョコをアナルに入れ、走る前のストレッチをしていると後ろから女子高生2人組が話しかけてきた。
「すみません、ゲリアナーキストのKeiGoさんですよね? 一緒に写真撮って頂けませんか?」
「え? 僕の名前はたしかにケイゴですけど、ゲリアナーキストなんて知らないなぁ。人違いじゃありませんか?」
俺がそう言うと、JKたちはスマホで文藝春秋のオンライン記事を見せてくれた。そこには『ホワイト社会へのアンチテーゼか!? 現代の救世主現る!』という見出しと共に、尻丸出しで走っているいつかの俺の写真が載っていた。twitterとfacebookで100万回シェアされていた。スキンケア、医療脱毛、嫌煙ブーム、禁酒、ミニマリズム……etc。何もかもが漂白され、汚いものや野蛮なものが不可視化されてゆくホワイト社会の息苦しさの中に舞い降りた1人のアンチヒーローとして、俺は自分の知らない場所で「ゲリアナーキスト」と名付けられ、いつのまにか神格化されていた。instagramを覗くと、そこには俺の真似をしているのか、下痢を尻から撒き散らしつつ、笑顔で海辺や街中を走っている国内外の美男美女の写真が立ち並んでいる。
ジャスティンピーパーが俺のinstagramアカウントを見つけてしまったらしく、新譜のMVで下痢を撒き散らしながら踊るバックダンサーの役で出演してくれないか、報酬は弾む、なんなら俺よりも長い時間出演させてあげるからと本人からGmailが届いた。
世界的なポップアイコンから連絡が来たことに戸惑いながらも、俺は不慣れな英語で断りのメッセージを入れた。俺は君みたいにフォトジェニックな男ではないし、第一俺がケツから垂れ流しているのは下痢ではなくチロルチョコなのだと。
*
それから数日後、ジャスティンピーパーがアメリカでTVに出演した時に俺のことを大喜びで話したらしく、海外のフォロワーが爆増した。
その波は当然日本にも及び、俺は日々知らないゲリアナーキストワナビたちからのDMに悩まされるようになった。
「KeiGoさん、うちの娘も3歳になり、やっと今年下痢デビューできました!」
「KeiGoさん、出したいと思ったときにいつでも下痢を出せる肛門括約筋の鍛え方を教えてください!」
「I love Mr.Gary, I want your diarrhea.」
「KeiGoさん、結婚して」
街に出ると尻を茶色く染めたファンたち、通称"下痢ラ"たちが大挙して俺を追っかけてくる。中には俺のアパートの住所を特定し、俺の部屋の玄関のドアや窓ガラスに下痢でハートマークを書いてくるやつもいた。自制という概念を忘れたかのような下痢ラたちの行き過ぎた行動の前に俺は早晩疲弊し、外装が真っ茶色になったアパートをほっぽり捨て、ビジネスホテルに閉じこもるようになった。
布団にくるまりながら、晩年をホテルの最上階で孤独に過ごしたというココ・シャネルや飛行王ハワード・ヒューズのことを俺は考えた。今となっては、奴らの気持ちがよくわかる。「ゲリアナーキストKeiGo」のファン達は皆、俺という人間ではなくゲリアナーキズムのアイコニックな雰囲気や、そこはかとなく漂うエモさに惹かれているだけなのだ。奴らは俺を見ているようで見ていない。清潔さをやたらと求める時代に産み落とされた下痢(本当はチロルチョコ)を撒き散らす異端分子としての俺、人間的な要素を全て剥ぎ取った観念的存在としての俺だけが大衆に担ぎ上げられ、礼賛される。それは根本的にゲリアナーキズムの思想に反しているのではないか? ゲリアナーキズムとは、人間の動物性の解放であり、それは本質的に即物的な営為であるべきものなのだ。
*
そんなことを考えながら布団にくるまっていると、突然客室に備え置かれた電話が鳴った。出てみると、受付がフロントまで降りてきてくれと言う。客が来ているというのだ。
一階に降りると、そこにはこちらが一方的に見慣れた顔の男が立っていた。天才編集者として数多のベストセラーを手がけ、現在は実夏舎社長を務める味噌輪厚介だ。突然の大物の登場に俺は足がすくんだ。
「な、な、何のようですか?」声が震える。無理もない。
「今日は稀代の下痢漏らし人である木村圭吾さんに、お願いをしに来ました。暴露王シーガーこと西賀義一と対談し、それをまとめた本を私に編集させて欲しいのです。それが売れたらぜひ、単著を。題名は『下痢3.0』なんてどうですか?」
ハイボールを片手にかすり傷だらけの姿で真剣に語りかけてくる味噌輪に対して、俺は好感を持った。俺のことを軽々しく「ゲリアナーキスト」と呼ばないし、本の題名もシンプルに『下痢』で打ち出してくるのが気に入った。ゲリとアナーキズムについては1文字たりとも書けないが、下痢についてならいくらでも書けそうだ。
俺はオファーを快諾した。
西賀義一。シーガーと人々から呼ばれ、有名人のスキャンダラスなネタをバラしまくる芸風を武器に一介のyoutuberから国会議員まで昇り詰めた大物との対談はすぐに日本中を駆け巡り、「閉塞感のある日本に風穴を開けるアンチヒーロー同士の邂逅」として話題になった。
対談当日、帝国ホテルの最上階で俺とシーガーは対面した。国会議員になったあと、政治家のスキャンダルを暴露しすぎて500回の暗殺未遂を受けたことをきっかけに「これからの公人は強くなければいかん物理的に」という思いから、ボディビルとクラヴマガで鍛え上げた黒光りした肉体は、異様な迫力を放っている。俺は何か後ろ暗いことを話さないように気を引き締め、席に座った。
シーガーは俺ににこやかに微笑みかけた。
「フォッフォッフォ。今、日本中いや世界中はあなたに、いやあなたの尻の穴、いやあなたの下痢に夢中だ。私は強者の悪行をぶちまけ、あなたは下痢を垂れ流しながらパブリックな場所でも下痢を撒き散らしていいのだというラディカリズムを拡散することで、この狂った社会を矯正しようとしている。その点では我々はやはり同志と言えるのではないかね? フォッフォッフォ」
思いの外ちゃんとしているように見えるがよく考えれば阿呆なことを言うシーガーの阿呆さ加減に辟易しながら、俺は返答した。
「確かに外形的に見れば、そう言えなくもないかもしれません。多様性を標榜しておきながら、際限なくクリーンさを求め、汚いものは排除に限りなく近い扱いをする現代社会の狂気が、バランスを取るために我々を産み落とした。シナリオとしては整合性があるでしょう。しかしこうも言えなくはないですか。あなたは憎しみを原動力に、私はお釣りを間違えた恥ずかしさを原動力に、あくまで偶然にこの世界に対するアンチヒーローになったのだと。あと私が垂れ流しているのはチロルチョコです。チロルチョコなんです!」
そう言い切ったところで俺はなんだか気持ちよくなり、これまで言いたかったのに言えなかったことを言おうと思った。
「元はと言えば俺はただチロルチョコが食べたかっただけなんだ。ほんのり苦味のあるチョコの中に包み込まれたコーヒーヌガー。包みを解いて中身を口の中に頬張り、舌の上で転がす。じんわりと溶けてゆくふくよかな甘み。それをブラックコーヒーで胃袋に流し込んだ時のえもいわれぬ陶酔感。俺はただその感覚を味わいたかっただけなのに、どうしてみんなは俺をゲリアナーキスト呼ばわりするんだ!」
思いっきり心の丈を叫ぶ間に視界が滲み、シーガーの姿がぼやけてゆく。
「KeiGoなんてふざけた名前つけやがって! 大体なんでKとGだけ大文字なんだよ。ダサすぎだろ! 味噌輪は箕輪厚介に決まってるし、お前は東谷義和だ! これは現実を雑なもじりで置き換えただけの夢なんだ。いいか、チロルチョコは美味いんだ!」
そこまで叫んだ瞬間、目の前のシーガーが破裂し、帝国ホテルは蜃気楼のように消え去った。気がつくと俺は、あのデイリーヤマザキの前で倒れていた。蝉が鳴いている。
「あのー大丈夫ですか?」
見上げるとおばちゃん店員が立っていた。俺がお釣りを聞き間違えた相手だ。
「すみません。ちょっと貧血で」
俺は適当に言い訳をして立ち上がった。
「よかった。あと、はいこれ」
そういっておばちゃんは俺に3円を渡した。
「えっと、これは…」
「私さっきお釣りの額を間違えちゃったみたいで。本当は144円じゃなくて141円だったの。ダメね、歳かしら」
なんてことだ。俺は最初からお釣りの額を間違えてなどいなかったのだ。恥ずかしさを感じる必要など、初めからなかったあじゃべろばあ。
(未完)
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