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オロナミンCをつい買ってしまう心理

(「noteのcakes」アカウントに2020年4月5日に書いたものを転載)

 甘い飲み物があんまり好きじゃない。

 甘い飲み物は、飲みすぎると胸焼けがするし、何より体に良くない。この、良くない、というイメージが変に先行してしまって拒否している部分もある。2月まで働いていた職場には、いつも傍にコーラとかメロンソーダのペットボトルを置いている同僚がいたけど、その人の口内環境は傍目から最悪だった。話すたびに、黒ずんだ歯茎の肉の色や、黄ばんだ歯が見えた。必ずしも甘い飲み物のためにそうなってしまったというわけでは無かったけれども、とにかくその人の歯がダメになってしまっていることと、糖分をたくさん含み、人工的に着色された炭酸飲料のイメージが妙に結びついてしまって、一時期全く受け付けなくなった。小さい頃から虫歯になりやすく、歯の関係で辛い思いをしてきたという個人的事情もある。

 ただ、一つだけ、見かけるとついつい買ってしまう飲み物がある。それは大塚製薬の「オロナミンC」。ちなみにあまり美味しいと思ったことはない。この世で一番美味しい飲み物はブラックコーヒーと天然水だと信じて疑わない自分の好みには、そもそもオロナミンCの味は合致しないはずなのだが、道先でオロナミンCの売られている自販機があると、つい買ってしまう。一体何故?

・結構な確率で「100円」(ワンコイン)の値段がついており、他の飲料よりも気軽に買うことができる。
・日常ではあまり出会わないマキシーキャップ。プルトップを引っ張り、「ポンッ」という抜けの良い音を出して蓋をとる体験が癖になっている。
・同系統のデカビタ、ドデカミンと比べてちょうど良い量になっている。
 →手軽に爽快な喉越しを味わうことができる。

 例えば、こうした理由がすぐに思い浮かぶ。

 確かに、オロナミンCはあらゆる意味でちょうど良い。デカビタは、少し量が多すぎて高年齢の人間や子供には飲みきれないかもしれないが、オロナミンCは飲みきれないということがない。老若男女、どの層にも選ばれる可能性を秘めている。だからどんなコンビニにも、銭湯にも薬局にも置かれている。湯から出た後の飲み物として、さりげなく上位ランキングにめり込んでいたりする。

 だが、オロナミンCの本当の魅力は本当は別のところにあるのじゃないか、という気が僕にはしている。少なくとも、僕がオロナミンCを買う一番の理由は、上記に挙げたものではないと思う。

 ここで、ちょっと話が脱線するが、僕は「小粒で美しいもの」が無性に好きである。宝石や鉱物を愛でる気持ちに近いのか。超大作のオブジェよりも、道傍でさりげなく売られているような絵葉書やストーンアートに心が惹かれる性分だ。大抵の事物には、「超大作」と「小品」という、両極の概念がある。長編小説と短編小説。予算もスタッフも潤沢な大作映画と自主映画。マグロ釣りとタナゴ釣り。

 「大きいもの」を目にすると、分かりやすく価値があるように感じるけれど、その広大さ故に輪郭を見失ってしまうことがある。古物商が高い器を鑑定する時、腕を伸ばしてできるだけ品物を自分の顔から遠ざけて見るが、物の良さというものを感じるには、よく言われる「鳥の目」と「虫の目」が必要なのかと思う(使い方、合ってる?)。そういえば、富士山の絵はいつだって遠くから描かれている。大きい物は、意識して遠ざからないと「鳥の目」が得にくい。ガガーリンだって、地球から脱獄してやっとこさ地球が青いことに気づくのだ。

 規模が大きくて、重量がある物(例えば家、墓、組織など)は、あんまり所有しているという感じがない。豪邸は、「広大な敷地と高い建築費用やハウスキーパーの雇用費を賄えるだけの財力がある」という権威が具体的な姿形をとって現れたようにひとまず自分は感じるだけだし、墓だって「故人の生前の名誉や社会的権力」が即物的に現れている感じがする。ピストル堤の墓は、超デカイらしい。デカイ物って、かっこいいけれど全然羨ましくならない。自分の人間性はこじんまりしているってことか。

 でも、夜景や工場群は欲しくないけど、夜景や工場群を切り取った一枚の写真は欲しくなる。そうした心理が、本当は夜景を自分の物にしたい欲求の代替的な物だとは思えない。建物や風景は、写真に切り取られた時点でもう役割を終えてしまっている。写真の中の建物や風景は、写真という枠で囲われた一つの独立した「世界」であって、被写体そのものとリンクするということはない。いや、もちろん写真が現実に何らかの影響を及ぼすことはあると思う。例えば、途上国で行われている戦争を切り取った写真が、先進国に持ち込まれて、その写真を見た人の一部が戦争を止めるために何かしらの活動を行うとか。でも、それはあくまで写真が媒介として使われているだけであって、因果関係としては繋がっている(=その写真の存在によって、一部の人間が行動を起こしたという因果)ように見えても、実際には繋がっていない。

 「大きくて重量のあるものは、あまり羨ましくならない」と書いたけれども、個人的に「羨ましい/羨ましくない」の境界線は、「車」と「バイク」の間にあるのかなと思う。道でフェラーリやベンツが走っていると、「かっこいいな」と思うけれども、「欲しいな」とはならない。バイクは欲しくなる。このバイクで、ツーリングに出たらさぞ楽しかろう、と。この差は完全に個人の塩梅ですが。ただ、バイクに感じる「欲しい」と、他のもっと小さなものへ感じる「欲しい」の間にも微妙なニュアンスの差を感じている。バイクへの「欲しい」は、「このバイクであんなことしよう(ツーリングとか)、あんなとこ行こう」という道具的欲望ですね。Macを欲しくなる気持ちも同じだと思う。それとは別に宝石に感じる欲望というのは、道具的欲望ではなくて、もっと純粋な所有欲という感じ。よく考えれば、ルビーやラピスラズリを持っているからと言ってどうということはないのだけれども、やっぱり持ちたい、自分のモノにしたいと願ってしまう。その欲望を、「持つことによって自分の価値を上げる」みたいなことに安易に結びつけるのはちょっと違う気がする。

 ここまで書いてきて、感じるのは人は「魅せられる生き物」であって、その「魅せられる」というのは、理性ではちょっと説明がつかないものだということですね。道具的欲望までは、何とか説明がつくものの、その下の純粋な所有欲は、ほとんど「フェチ」というか。例えば、僕が欲求を感じない「家」や「車」を欲しいと感じる人も世の中にはたくさんいらっしゃるわけで。多分、彼らが感じる「欲しい」というのも、「権力・財力の誇示」とか「これに乗ってどこかへ行きたい」という道具的欲望と結びつかないことも多いと思う。

 少なくとも、僕にとっては大きな物はあんまり羨ましくならないけれど、小粒な物は分かりやすく羨ましい。

 オロナミンCの話よ、何処。

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