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ちょっとずらす

 渋滞が嫌いだ。自分はなるべく、渋滞する時間帯に渋滞する場所には行きたくない。もちろん、年末年始の帰省ラッシュなど、一年のうちでどうしても渋滞に飛び込んでいかなければならない時はあるのだが、そういう機会もなるべく最少に抑えたい。

 どうして渋滞が嫌いなのかというと、自己都合以外のために自分の身動きが拘束されてしまうことに強い不快感を感じてしまうからだと思う。自分が何もしたくない時は何もせずにぼーっとしていればいいし、悩み事があるときは時間を気にせず思い切り思い悩んでいればいい。ところが、自分が動きたくて堪らない、という時に行動を他者に阻まれてしまうというのはあんまり気持ちよくない。

 「烈火のごとく怒る」「身を焦がすような恋」という慣用表現に見られるように、人間はよく「火」に例えられるが、自分はむしろ、日常的には人間は「水」のようなものではないかと思うことがある。水は、流れているか否かによってその姿をがらっと変える。急峻な谷の間を流れている川の水は透き通っているし、平地にある池や沼の水は濁っている。人間についても同じことで、流れていればまずまず健康な心を保てると言えるのかもしれない。

 ところで、この場合の「流れる」とは、どういうことだろう。慣用表現からヒントとなりそうなものを拾うと、例えば「流れに身を任せる」という表現がある。この表現には、運命論的な響きがある。前半は受動的で、後半は能動的な感じである。流れに身を任せて生きる人は、きっかけが訪れるのを待っている。そして、「これぞ」というものに出会った時には運命を信じて果敢に飛び込み、恐れを知らない大胆さで何やらすごいことを成し遂げてしまうイメージがある。似た表現で、「流される」というものもある。これは受動態の表現であることからもわかるとおり、「流れに身を任せる」のとは違って、100%受け身な響きがする。流されて生きる人は、他者依存的で、その時々の主流に合わせて価値観を何となく乗り換えつつ、結局何がしたかったのかはわからない。

 字面はほんの少ししか変わらないのに、「流れに身を任せる」と「流される」とではだいぶ印象が違う。キーワードは「余白」である。「流れに身を任せる」では、きっかけは他者がもたらすが、そこから先は己の酔狂で事を進めている。他者からもたらされるきっかけを受け入れることができるのは、それだけ心に余白があり、開かれているからだ。しかし、「流される」の場合、最初から最後まで他者に手取り足取り何かをやらされている感じがある。本人は納得していないのにも関わらず、それに逆らうこともできない。他者からのきっかけを受け止める余白が本当は無いにも関わらず、それを拒むことができていない。それはつまり、表面上は全てを受け入れているように見えるが、実際は全てを拒んでいるということでもある。

 おそらく客観的には、その人が流れに身を任せて生きているのか、単に流されて生きているのかは判別できないだろう。しかし、この価値観の受け入れ方、という面で両者には圧倒的な違いがあるのだと思う。「流れている」人が、もしも「流れに身を任せ」ているのだとすれば、おそらく彼はどんな価値観も拒むことはしないのではないか。しかし、そのことと特定の価値観を彼のうちに取り込むかどうかというのは全く別の話で、そこには一定の美学が必要になる。長くてもせいぜい100年しか生きない生の中で、あらゆる価値観を無理矢理取り込み、それらの全てに整合性を保てるように生きようとすることはまず不可能なことではある。仮にAとBとCの3つの価値観を取り込むとすれば、AvsB、AvsC、BvsCの3つの衝突点が生まれてしまい、葛藤してしまうからである。衝突点をあまりにも多く取り込み、葛藤に埋め尽くされてしまった状態が「流されている」状態とも言える。

 それでも、どのように意識していても衝突が起こってしまうことはある。例えば、配偶者や自分の子供が自分とは全くかけ離れた価値観を持っていた場合を想定してみる。息子がゲイであることを知ったカトリック教徒の父親がとれる行動は、「拒否」(息子との関係性を断つ)か「受容」(息子がゲイであることを受け入れる)か「再教育」(息子にゲイであることをやめさせる)のいずれかである。 この時、「受容」を選んだ人だけに、2つの相容れない価値観を包括するもう一つ高次の価値観を醸成する機会が与えられる。つまり、余白である。

 余白を得ることができた人間は、あらゆる手段を講じて思考する。その思考の果てに、独自の価値観が出来上がるかもしれない。例えば、この父親は余白を得たために書物に手を伸ばし、性愛の歴史を紐解くうちに今まで何となく敬遠してきたミシェル・フーコーの著作に手を伸ばすかもしれない。初めは『性の歴史』だけ読むつもりだったはずが、次第に面白くなり、『監獄の誕生』や『狂気の歴史』など、代表的な著作をひとしきり読み通し終わった時には、もう以前の自分ではなくなっているということがあり得る。性愛どころか、現代社会における政治体制や刑罰のあり方にも思考が及び、ひいてはこれまで素朴に信奉していた宗教にすら懐疑を抱くようになるかもしれない。そうして出来上がった価値観は、独自的なものだろう。こうした余白の旅を繰り返していく毎に、思考は二転三転し、年輪のように独自性を増していく。

 ここまで書いて結局、何を書きたかったのかわからなくなった。冒頭の渋滞嫌いに無理やりつなげて終える。渋滞が生まれるということはそれだけ少数の価値観に多人数が集中している状態なのだと思う。しかし、自分は渋滞が嫌いで、どうにかしてなるべく渋滞にぶつからないような考え方をする必要がある。その手段の1つとして、これ以上なく個人的な価値観を作り上げるということが必要だと思っている。そもそもピントがずれていれば、渋滞や人混みにもぶつかることはないだろうということである。で、そのためには余白が必要だという話。

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